小説 運タマギルー 33

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え、ええ! そうです! 彼の妻です! 女房です!

旦那もめでたい男じゃな。うらやましい限りじゃ。

「ただいま帰ったぞぅ――」

おかえりなさい、ご主人様。あの、ご主人様が留守にしている間にお客様がいらしていて、あの、その……。

目をそらす。ベッキーはギルーの顔を直視できない。震えた両手のうち右の人差し指を鍵型にしてから歯で噛んだ。あたりは無音に満ちている。いや、それよりも外界のススキ音が気がかりだ。彼女は状態をギルーから逸らすと、急ぎ目で外の様子を伺った。

誰もいないわよね……? 誰も殺しに来てないわよね……?

「どうした? なにやら怯えておるようじゃが」

「いいえ……。やっぱりなんでもないです。ご主人様、お背中を拭きましょうか? それとも足を洗いましょうか? 身体をお掃除させてください。おねがいします……」

「客とは問屋の用心棒か何かだろう? わかっておるぞ。刺客としてきたのかの?」

「いえ、そうではなかったです。たいそう紳士的な方でした。あの、わかりませんけれど、もしかしたら、用心棒というのは荒々しいのでしょう? 問屋とはまったく違うのではないですか? 本物の役人だとか……? えっ! ちょっとまって! 役人?」

「役人だと? 首里からの? 真玉橋と関係して? おや、真玉橋とは知らんよのう? 知っておるのか? 真玉橋の処刑場を? 知っておるのか、ベッキーよ」

「それに関しては分からないです。無関心というわけではないのですけれども、わたしはこの時代の人間ではないので。そんな話をしてもご主人様は信じないですよね。それにどう説明したらいいかもわからないし、話すだけこんがらがってしまいそうで……。でもわかるんです。役人ということは、ご主人様も危険にさらされているということが……。そうなのでしょう?」

思わず涙目になった。雫が頬を伝う。やりきれない気持ちでいっぱいだ。

わたしは出会って間もない男性に恋をしてしまっている。本気で愛してしまった。もう戻れないあの頃の自分。過去では制服なんかつけて、公園でセックスをしたりだとか、イルミネーションに酔いしれたままキスを交わしたり、たしかそんなことがあったっけ。けれども今は違う。土のにおいが手足の表面にはこびりついてて、スリッパもなければブラジャーもない。あるのはふんどしと、古びた浴衣と、いとおしいご主人様のペニスだけ。光景は、景色は、ススキの雑草群と絵の具を溶かしたように青い海。ビルディングもなければエレベーターだってない。カルチャーショックを受けたのは束の間、そんなものに驚いている隙間なんてなかったもの。生きるか死ぬか、ただそれしか用意されていないのよ。この世界はとても単純にできていて、つまりいうところのシンプルイズベスト。物事は常に単純明解でなくちゃならないのよ。だからわたしが恋をしたということに延長線はなくて答えしか返ってこなかったの。そう、ご主人様に慕うことだけなのよ。わたしはとても弱い女だから、もしもご主人様が亡くなってごらんなさい? 絶対に生きてゆける気がしないの。それが積み木崩しのようにして奪われようとしている。亡くそうとしている。これからわたしは何を頼りに生きてゆけばよいのでしょう? 余裕のない世界。隙間がない世界。つまりはわたしもまた死ぬってことなのね。

「ベッキーよ、泣くな。ワシは死んだりせん」

「でも、仇を取るつもりなのでしょう? それくらいのことわたしにだってわかります」

「そんなにわしを失うことが怖いか?」

「はい……」

思わず身を任せたくなる。身を任せた。今、ベッキーは、ギルーの懐にいる。たちまち彼の汗のにおいに翻弄された。それはとても鼻にツンとくるのだが、しかしながらその刺激こそ愛おしいと感じるのだ。とてもたくましい胸元。それでいてフェロモンを醸し出している胸毛が少々ある。

「ベッキーよ、まだ身体を洗ってなかったな。本当は井戸端で拭ってやるつもりじゃったのだが、ここで洗うとしようか?」

「いいえ、ご主人様が頑張って運んできた汲み水でそんなことできません」

「ならば、もう一度井戸へ行こうぞ。なあに、もう一杯運ばねばならんでのう。おまえは手ぬぐいをもってして付いてくればよい。天秤棒なんぞは要らぬぞ」

「はい……」

二人で井戸へ向かう。ギルーは片手に天秤を担ぎ、もう片手でベッキーの手を握って前を歩いた。道中、道の幅が狭いときこそつないだ手を離すのだが、そいつを抜けると再び手をぎゅっと握る。ベッキーは手ぬぐいを持った片手を心臓あたりへあてがい付いていった。頬は薄紅色にほてっている。こんなに初々しい気持ちはいつぶりだろうか? そんなことを思ったりもしたけれども、過去の世界の出来事などどうでもよいとさえ感じさせるこのご主人様は、たいそう出世されるのだろうな。と嬉しくなった。

わたしね、わたしはもうこの世界のままでもいいと思っているの。だってそうでしょう? わたしにはこんなにやさしくて立派なご主人様がいるんですもの。

このススキ群が覆いかぶさっている小道を下れば目的の井戸がある。足元はぬかるんだ赤土だった。おそらくこの辺一帯が水脈なのだろう。酷く湿りっ気のある空気があたりに漂っている。どうやらやぶ蚊も多いようだ。

下って井戸へと着く。先ほどとは打って変わって井戸端は石畳で土がめくれていなかった。しかしながら其処もまたひどく濡れており、草鞋ではとにかく滑る。それからどう確認しても水を汲む井戸堀がないのだ。あるのは岩礁のくぼみに溢れた深い水たまり。ここがギルーの言う井戸だというから驚きである。教科書などでは井戸掘があって、桶の付いた縄で水をくみ上げているわけだが、現実はだいぶ異なる。

「ベッキーよ、浴衣を脱いで見せろ。体をぬぐってやる」

言われるがままにするしかない。主導権はご主人様にあるのだから。恥ずかしいなどといっても無駄だろう。彼女はギルーに背中を見せ、うなじの曲線美を見せつけた。ロングヘア―の髪は束ねて団子にしている。はらりと肩から浴衣をはだけさせると、彼は”ううむ……!”と発した。肌と肌を合わせた相手なのに、とても恥ずかしくおもう。

「本当に素晴らしい身体だ。どうもワシにはもったいない女よのう……」

「そんなことないです。ご主人様、前を向かないとだめですか?」

「恥ずかしいのならば後ろだけで構わん。前は自分で拭ったらいい」

「はい……」

それからは無言に満ちた。背中を拭ってくれているご主人様がいま何を考えているのかは果たして知らない。わたしはただ、もう一つの手ぬぐいで恥部と胸元を洗うだけ。あそ

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