小説 愛するということ 26

連載小説
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正樹は、『運命』と恵が発した不幸なるお告げの言葉が、今夜この時に完全と終わる事を殴り合いをしつつも願っていた。

長い時間が過ぎ、やがて疲れ果てた後、正樹と智彦は全員を見上げる形で数え切れないほどの足蹴りを見舞った。正樹は少し意識が薄れた。すると、朦朧としたこの場面の上空に光が見えた。しかし、それは何事もなく瞬時に消えた。彼にはもはや痛みなど感じなかった。

――あれは多分。

辛さに耐える事無く、只ぼんやりと光の存在を考えていた。

正樹と智彦は同じ部屋に居た。集団リンチが終わった後、意識を失くした正樹を部屋まで運んだのは智彦一人だけ。荘を担当する職員は、何時もの様に“他人様の児だ”と知らぬ顔を通している。それは入園した時から分かっていた事だ。別に今更驚く事もない。ここに居る大人連中は、たとえ園児が死のうとも全く同じ態度をしてみせるだろう。薄っぺらの布団が敷かれた二段ベットへ寝かせた時、虚ろに遠い正樹の意識は戻った。

「正樹、大丈夫か?」

正樹は智彦に言葉を返そうとしたが、呼吸がとても辛く、今すぐに話せると言う状態ではなかった。

「じっとしてろ。もう終わったんだ。だから大丈夫、俺は気にしてない。とにかく今は何も言わなくて良い。大丈夫。服、めくるぞ」

智彦は正樹の体の具合を確かめた。どうやら骨には異常がない様だ。だが、呼吸はとても不安定のままだ。

「ちょっとまってろ。なんか体冷やせるやつ持ってくる。そのまま動かないでじっとしてろよ」

何か少しでも良い。彼の身体を癒す事が出来ないか考え、智彦はふと思い出したように共同浴室へ急ぎ足で向かった。彼は共同浴室の洗面台で、洗面器に冷たい水を入れては、中にタオルをほおり、十分に水を染み込ませた。

洗面器を台から上げたその時、彼はふと、自分の顔を鏡で伺った。

――とても酷い有様だ。智彦がそう感じた時、急に浴室の電気が激しくちらつきだした。彼は周囲を確認したいが、しかし、不思議にも鏡を見つめたまま微動だに出来なくなっている。“金縛り”だ。智彦は直感的にそう察した。

「うぅ……」

もはや動く事も言葉を吐くことも出来ない。何時の間に、鏡に映る自身の背後に人影が映っている。その人物は見知らぬ大人で、ちらついた光によりその姿をこちらへ断片的に見せた。この大人は男性で、背丈が高く地域の特徴あるやや濃いめの顔つき。そして、なにやら寝間着が酷く汗ばんだ様な格好をしていた。

智彦に纏わり付く金縛りが全身から解けた。彼は洗面器からこぼれる水にかまう事無しに、勢い良く振り向いた。いつのまに人物はすぐ目の前に居て、少し上から見下ろすように此方を見つめている。人物は笑顔で口を開いた。

「ありがとう」

智彦の両肩に、大人の大きな手が届いた。次の瞬間、智彦は奇妙にも記憶が別の空間に飛ばされる様な感覚を覚えた。意識は今、現実にはない。

彼の行き着いた場所。そこは正に真っ暗な世界。中央にあたかもスポットを当てられたかの様に、明るく照らされた一枚の写真が置かれている。智彦は、その写された光の画像を拾って見た。感慨無量に枯れた筈の涙が再び蘇った時、彼は小さく独り言を呟いた。

「正樹、お前だったのか……」

学、健一、博史の三人は、正樹を助ける事による健二の報復が怖く、そのまま荘へ帰っていた。二人は完全に、友に裏切られたのである。やがては体の痛みが和らぎ落ち着いた時、正樹は泣いた。誰に見られても聞こえても良い位に激しく泣き続けた。隣に座る智彦もまた同じように大声をあげながら泣いていた。

「俺一生、今日の日を忘れない――」

智彦は突然、右手首をカミソリで十字架に切り正樹に見せた。手首から濃い血が滴り落ちている。それを見た正樹は、ちょうど横にあった無地のタオルを智彦の手首に巻きつけ、最後にややきつく縛った。

少しばかり沈黙が続いてから智彦が口を開いた。

「正樹、そう言えばな、さっき……。いや、なんでもない……」

彼はそう発した後、格子の向こうをぼんやり見つめ続けていた。

 

連日続いた集団リンチが終えてから一ヶ月ほど、正樹と智彦は互いの為に施設内で会うことを極力避けた。会えば健二の行った行為に意味がなくなり、再び互いを殴りあう事になるからだ。仲間にすら唾を吐かれた二人は完全と無力化していた。抵抗する事など火に油を注ぐだけで何の意味も無い事は言わずともわかる。これ以上騒ぎが大きくなれば互いの彼女にも間違いなく飛び火する。こうなった以上、もはや打つ手はなかった。正樹と智彦は戦わずして完全に負けたのだ。

 

『主はこう仰せられる、あなたの痛みはいえず、あなたの傷は重い。

あなたの訴えを支持する者はなく、あなたの傷をつつむ薬はなく、あなたをいやすものもない。

あなたの愛する者は皆あなたを忘れてあなたの事を心に留めない。

それは、あなたのとがが多く、あなたの罪がはなはだしいので、わたしがあだを撃つようにあなたを撃ち、残忍な敵のように凝らしたからだ。

なぜ、あなたの傷のために叫ぶのか、あなたの悩みはいえることはない。

あなたのとがが多く、あなたの罪がはなはだしいので、これらの事をわたしはあなたにしたのである。

しかし、すべてあなたを食い滅ぼす者は食い滅ぼされ、あなたをしえたげる者は、ひとり残らず、捕え移され、あなたをかすめる者は、かすめられ、すべてあなたの物を奪う者は奪われる者となる。』

 

密会のようにして正樹は恵と会った。二人は運命に対して話す事はしなかった。只、この日の礼拝で告げられた聖書の言葉を、彼の気持ちを察するように復唱する恵に対して、正樹はとても心を打たれた。今日は梅雨空のように灰色で、辺りは休むように暗く感じる。天から打ちつけるこの土砂降りは世界を悲しく思わせながらも、草花から生命のエネルギ

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