小説 愛するということ 17

連載小説
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き夢を持っていた為か、子供を出産する事に関して悲観的であったが、最終的にはこの命に名前がついた。『山田徹』の誕生である。

徹が生まれてから八年。この町にある桜の木もだいぶ成長した。慶三は今朝も桜がさらりと美しく散り行き、そして周囲が桃色に彩られる瞬間の世界を一人歩いた。朝露に濡れたベンチに腰を下ろす。じんわりと衣類に無数の小さな水滴が染み込んだ。彼はそれにかまう事無く再びそこから桜の木をぼんやりと眺めた。

慶三は空を見上げたままの状態で目を閉じてみた。何処からともなく吹き抜けてきた風の匂いにかすかな何かを感じた。忘れられた記憶の奥深くから覚醒された様に目を大きく見開く。慶三は風上の方向へゆっくりと顔を移した。そこには、この現実にある空間の途中を断裂された様な線が空中に引かれた様にして浮び、そこから地面へスクリーンの様に光が差し込んでは、鮮明に何かを映像化していた。彼はゆっくりと立ち上がった。利き側となる右腕を光の方向へと水平に伸ばし指先を震わせる。

「志津絵……」

目の前に映った光景が思わずそう言わせた。慶三はまるで古い八ミリビデオの様な物で撮影したようなモノクロ調の映像にゆっくりと近づいてみる。どうやらこの中には二つの世界が被さって映し出されている様に感じ取れた。震えた指先でそっと触れてみる。瞬間、脳を直接的に刺激した。慶三の魂が自身の体を離れた。二つに分身する。一つの魂が手前に映し出された世界へと吸い込まれた後、そのスクリーンの様な物は分身と共に消去され、奥にあるもう一方の世界だけが彼の目の前に残された。慶三は水平に伸ばした腕を一旦下ろした。思考を巡らせてみる。これは一体どういう事なのか? 考えた。しかし、答えは見つからない。慶三は自身の重さが何故かだいぶ軽い事にようやく気付いた。どうやら自分は魂と化したらしい。そして更に半分は何も知らずどこかへと消えてしまったということ。彼は、自身の人生と運命について思い出した。これまで自分は、流れに逆らう事無く自然にここまで辿り着いた。全ての運命を自然に受け入れてきた。ならばこの奇妙な出来事も、自分の人生に対して何か理由があり、答えを求めて行動してみるべきなのかもしれない

慶三は、決意した。再び水平へと伸ばした腕の先が、スクリーンらしき物の中へと入り込んだ。瞬時にプラズマのような激しい光と共に、全身の内部からストロボの様なフラッシュがたかれた。そして彼自身が目をくらませたと実感した瞬間から、世界は全くの別物となっていた。宿命とも言うべき物に運ばれたこの魂は、今、慶三の知らないもう一つの世界に居る。彼は昭和の三十二年となる沖縄に辿り着いていた。相変わらずこのやや透き通った体は、とても不安定で、歩くには何処か物足りなさを感じる。目の前に商店街が見えた。しかし、長らく故郷に帰る事無く、その為、土地勘を失ったせいか、この場所を完全に特定できない。慶三はとりあえずアーケード街を歩く事にした。不思議な事に、全ての人や物が彼に気付く事無く、そのまますり抜けていった。やはり今の自分は霊体なのだと言う事を、彼はここで実感した。商店街を入ってすぐの所に時計屋がある。ガラス越しから日めくりのカレンダーが見えた。どうやら今日は自分がベンチに腰掛け桜を眺めたあの朝と同じ四月の十三日らしい。さらに歩いてしばらくした所に小さな花屋を見つけた。同年代の男性客が女性店員と何やら会話を交わし始めている。慶三は立ち止まり、吸い寄せられる様に二人の会話へ耳を傾けてみた。

「今日も何処かへお寄りですか?」

「ええ、まあそんな所です。毎月十三日には必ずと彼女に約束しているもので」

「あら? 慶三さん、彼女いらっしゃったんですか――?」

この瞬間、外に立つ慶三の目が完全と見開いた。

慶三? やはり彼は自分だったのか。しかし、一体どういう事なんだ? まるで自分はもう一つの世界へ来ている様に、話がまるで違う。自分はあの日からこの島には一度も戻っては居ない。しかもこの日は、あの公園で桜を眺めていたはずだ」

慶三は少し目眩を伴った状態で考えた。あの桜の日に自分は死ぬと言う事を自然と悟った。そうか、そういう事か。会話は続く。

「――いえいえ、亡くなった女房の事ですよ」

「ああ、そうだったんですか。まさか、大東亜で? あ、ごめんなさい!」

女性店員は、思わず口を塞いだ。

「いえいえ、大丈夫ですよ。気にしないで下さい」

微笑を浮かべて彼女を気遣った彼の瞳は徐々に涙を浮かべ始めた。

「彼女とは、戦時中に生き別れとなりましてね。終戦後になんとかここに戻って来れた事までは良かったんですが……。しかし、だいぶ遅すぎたようでして……。まさか子供と一緒に自決していたとは……。本当に無念です。この戦争は本当に酷かった……。しかも、最後の最後まで終わる事無く、生き残った者たちをも永遠に苦しめ続ける……。せめて、尊い命を自ら落とした彼女達には、どうか安らかに……」

彼は途中で言葉をつまらせ、その場で大粒の涙を流し始めた。

「可哀想に……。大丈夫ですよ! しっかりしてください」

「――場所は何処なんですか?」

外に立つもう一人の慶三が、店内の彼へそう発した。その声は、不思議にも女性の慰めよりも強く彼の耳に届いた。

「慰霊碑の場所ですか? 桜町――」

茅野市 桜町四―二二―二四番地に建つ慰霊碑は、この世界に居る彼が、まだアメリカ支配下である市に協力を要請し続け、昭和二十八年にようやく置かれた物。

住所を言い終えた後、店内に居る彼がはっとし、店の外側へと顔を向けた。しかし誰の姿も見えない。その後、彼が首をかしげた頃には、既に違う世界から訪れた慶三の魂は、その地付近へと瞬間的に移動を果たしていた。

目的の場所近くに着いた慶三の魂は、懐かしさを感じていた。この丘にある森には、少年時代の思い出が沢山ある。世界こそ違う物の、目に映る色彩は昔とは大分違いはあるが、どちらの世界共にその光景に対する変化は全く見られない様に感じた。彼は今、子供の頃よく足を運んだこの森にある秘密の場所へ立っている。東には太平洋。そして西方角を向けば東シナ海が望めるこの絶景の位置を知る者は、非常に少なかった。慶三は良く晴れた青空と、下に見える少しばかりの町並みのずっと向こうにある小さな島々、波しぶきを上げる岬、南から北へと伸びる白い砂浜、を左から右へゆっくりと眺めた。一息ついて後ろを振り返る。少しばかり低い丘の頂上付近にある杉群の合間に一本だけ赤い花を咲かせたでいごの木を見つけた。彼は、体を宙に浮かせるようにしながらその場所へと一直線に向かった。そこが慰霊碑のある場所だ。慶三はデイゴの木の下まで来た。向こう側からは見

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