連載小説 愛するということ 66

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第八章

こちらから章ごとに載せます

愛すると言う事~第八章

 

香織が完全に居なくなってから、正樹は再び孤独な休日の繰り返しに戻っていた。

彼女と別れてから最初の日曜。この日、正樹は一日中何もする気が起きなかった。彼は今、部屋の壁にもたれて座り込んでいる。

正樹は向かい側の白壁の上辺を見た。石膏ボードの上にクロスが貼られたこの窮屈な部屋の白い壁には、香織から貰った少し可愛い掛け時計が下っている。彼女は二人の時間をこれから大切にしてほしいと、それを付き合って最初のころ彼に贈った。

正樹はその掛け時計をただ呆然と眺めては、香織の気持ちを踏み躙った自分に対して怒りとやるせなさを込上げた。恵の時と言い香織の時と言い、自分は何て勝手で愚かなのだろう。繰り返してしまった自分の浅ましさに、正樹は心底嫌気がさした。

香織と別れてから一か月ほど経過した。しかし正樹の心は、まだ香織と別れたあの日から時がさほど経過していなかった。

正樹は気晴らしに、職場の上司にあたる伊藤勝則からしつこいほどに「開放している」と話を聞いていた駅前のパチンコ店へと玉打ちに一人でふらふらと出かける事にした。

だらだらと歩いては、やがて店へ辿り着く。正樹は自動ドアの向こう側で待つ娯楽の世界へ躊躇する事無くスッと入った。

途端、耳が痛くなるほどにホール内へ響くけたたましい音が、正樹の耳をこれでもかと攻撃した。が、しかし、それが彼に纏わりつく自己嫌悪な空気を一瞬で何処かへと吹き飛ばしてくれそうな気がして、今の正樹には何だかちょうど良かった。

正樹は、台の隣に設置された機械で玉を購入してから、早速パチンコを打ち始めた。次々と発射されていく銀色で艶のある小さな球体の幾つかが、遂には入賞口へと流れ込んだ。中央に設置されたデジタル表示のドラムが、音楽と共に回転する。正樹はしばし時を忘れてそれを何回も繰り返した。

夕方をとうに過ぎ、やがては夜を大分迎えた頃、正樹は勝則と店内でばったり出くわした。打ち続けて気が付けば閉店前。いつの間にか二人は台を並んで打っていた。

「くっそー、やっぱり出ねえな」

やたら悔しそうに勝則は言うと、ひょっと正樹が打つ台を覗いてきた。

「あっ! お前、リーチかかってんじゃねえかよ」

少し大げさに勝則は言った。

「あ、はい……」

正樹は力の無い声で返した。その直後、リーチは外れた。見ていた勝則は自分の事の様に舌打ちをして台から目を離した。

「なんだよ。外れかよ」

勝則はしけた顔でそう発してから、今度は正樹の表情を伺ってきた。正樹は先ほどから感情の無い様子。勝則は思わず訊いた。

「おい正樹。お前、最近ほんと元気ねえな。大丈夫か?」

「あ、はい、大丈夫ですよ」

正樹は答えたが、勝則は、それは違うとすぐに分かった

「お前、もしかして、香織ちゃんの事でまだ落ち込んでんのか?」

正樹はそれには答えられなかった。

「そうか……」

口をつぐんだ正樹を見て、勝則は溜め息混じりにそう発した。

次の瞬間、勝則がいきなり正樹の肩をぽんと叩いた。勝則は元気付けに言った。

「よし、それじゃあ来週一緒に飲みにでも行くか」

「え?」

正樹は少し驚いて勝則の顔をチラリと見た。

「良い店だぞ。お前と余り変わらない年の可愛い子も居る」

「いや、でも俺、そういう所は慣れてないので遠慮しときます」

直に勝則の言う飲み屋がスナックだと分かった正樹はそう返した。彼はこれまでその系には、同じ寮に住む先輩達と三回ほどしか行った事がなかった。

「毛の生えた大人が何言ってんだよ。どうせお前、土曜の夜から暇してんだろ?」

「まあ、そうですけど……」

正樹は断る理由を失った。

「決まりだな。土曜日、仕事から帰ってきたら準備しとけよ」

勝則はそう言うと、再びゲームを続けて残りの玉全てを台の中へと吸い込ませた。

来る土曜の二十二時ごろ、正樹と勝則は下赤塚駅前の居酒屋から成増にある勝則が行きつけのスナックへと向かった。

土曜らしく、少し狭い店中は先客で幾分混んでいた。

二人は一度、空席を入口で確認してから中へ入った。席につくなり、勝則はキープしてあるボトルを三十代前半に見える少し狐顔をした顔馴染みのホステスに頼んだ。席にはその女性がついた。シャネルであろう香水の匂いがぷんぷんと正樹の鼻元まで届いてきた。

女は二人へ軽く挨拶し席についた後、シングルモルトウィスキーの山崎を氷の入ったグラスにトクトクと注いだ。そしてそのロックを水で割りながらも、正樹の事にそれとなく触れてきた。

「勝則さん、こちらの若い御連れさんは職場の方?」

「ああ。一応、営業じゃなくて現場の方回ってる奴だけどな」

「へえ、そうなんだ。明美です、よろしく」

「名前は正樹って言うんだ。覚えやすいだろ?」

「え、名字は?」

「上間です」

正樹は答えた。

「上間って言うんだ。出身は何処? 東京じゃないよね?」

「沖縄だよ」

勝則が横から教えた。

「え? 沖縄なの?」

「はい」

「へえ、そうなんだ」

話は一旦ここで止まった。明美は出来た水割りを二人の前に置かれたコースターの上へ優しく乗せてから「私も頂いて宜しいですか?」と決まり文句を言った。勝則が「どうぞ」と発すると、明美は躊躇なしに営業用の一回り小さいグラスに水割りを作り、それから「それじゃ、頂きます」といって二人にグラス合わせを求めた。

勝則から先に水割りを軽く口中に含むのを見てから、正樹も喉の奥へとウィスキーを流し込んだ。途端、世界が更に心地よい大人の雰囲気になった。明美が先ほどの続きを話しだした。

「そう言えば、ここの常連さんで沖縄の人がいるわよ。今日も来てるけど、ほら、あそこの一番奥の席に座ってる人たちの中に居るんだけどね」

「へえ、そうなのかよ」

勝則が軽く後ろを振り返って言われた方向を見た。正樹もそれに同調する様に、勝則の向かいの席からあちら側へと視線を移した。

見ると四人組の男が、二十代前半であろう若いホステスを口説く様にして楽しく会話をしている。コチラ側へと席が向いて座る二人は、とりわけ女に夢中の様子で、後頭部をこちらに向けた残る二人と同じく、勝則と正樹の視線に全く気が付いていなかった。

正樹は顔が確認できる二人の男を軽く流すように左から見た。そして、とてつもない衝撃が正樹の全身を駆け巡った。

――そんな、まさか! どうして奴が此処に?

正樹は、直にはとても信じられなかった。しかし、視線の先にいる男は、紛れもなく中田健二。

これはもう幸福から突き放す神に与えられた自身の運命を正樹は感じる他なかった。

その後、施設での記憶が走馬灯の様に駆け巡りながらも、正樹の心にあらゆる思考が交錯した。もはや勝則と明美の声など余り耳に入らなかった。

正樹は感情を隠す様に、明美によって作られる水割りをどんどんと飲み干した。

――神は何故に、この様な巡り合わせの場を自分に齎したのか? 復讐しろと言う事か? しかし、それじゃ健二とまるでやる事が同じではないか。

だが、それは昔の話とはいえ、正樹は健二に仲間を奪われた挙句、奴の指示で裏切りとも言うべき集団リンチに遭った。そして、遂には恵と別れてしまった。

もう二度と無いかもしれない機会にありながら、あの時のとてつもない痛みと苦しみを、健二へほんの少しも返すことなくこの場をやり過ごすのは、当然ながら正樹は御免。報復までとは行かずとも、せめて奴の顔を思い切りに殴りつけてやる位は、誰にでも許される事だろう。酔えば酔うほどに込上げる怒りの中で、正樹はそう判断した。

しばらくしてから健二の携帯が鳴った。彼は携帯を手に取り受話口を耳に当てては、ちょうど始まったばかりのカラオケで煩い店内から避けるように外へと出て行った。それを見ていた正樹は、今が絶好の機会とばかりに勝則へ適当に理由を作ってから健二の後に続いて外に出た。携帯と煙草はそのままテーブルの上に置いてある。事が済めば、正樹は再びこの場に戻るつもり。

店の外に出ると、健二はすぐ其処で向こうを見ながら電話の相手と会話していた。どうやら相手は別の店のホステスらしかった。今日は店に来れない等と話しているのが聞こえる。

直ぐに大して重要な電話ではないと察した正樹は、通話にかまう事無く健二の背後から「おい」と勇ましく声をかけた。正樹の声に健二が振り向いた。瞬間、正樹は利き腕で健二の顔面を思い切りに殴った。健二は携帯を何処かへ飛ばしてその場に倒れた。

「痛ってえな、なにすんだよ!」

健二は頬を撫でながら発した。彼は血の混じった唾を吐き捨ててから訊いてきた。

「誰だよ、お前」

健二はいきなり襲ってきた相手が誰なのかまだ気付いていなかった。正樹は、自分の事を完全に忘れている健二にとても腹が立った。過去に思い切り虐めた相手をそれは簡単に忘れているのかと、彼は咄嗟に思ったのだ。

思わず感情が頂点に達した正樹は、立ちかけた健二の腹部を、声を出しては渾身の力で蹴りつけた。健二は咄嗟に両腕で腹部を隠した為、受けたダメージは半減した。が、しかし、大分効いている様子ではあった。正樹は思い切り蹴りつける際、感情極まった声と共に、「俺を忘れたのか?」と発していた。

健二は痛みが辛く顔を顰めながら正樹の顔をよく見た。そして、ようやく相手が誰なのか気付いた。彼は苦しさで詰まりながらも言った。

「ま、正樹! どうしてお前が此処に?」

「それはこっちが訊きたいな。立てよ」

正樹はそう言って健二を自身で立たせた。

完全に立ち上がったところで正樹は再び健二の顔面を殴ろうとした。殴れなかった。

口説く事ばかりであまり酒が進んで居なかった健二が、大分酔った正樹よりも一瞬早く拳を走らせていた。健二の拳が正樹の鼻元に直撃した。

直ぐに正樹の鼻から鼻血が流れだしては顎の下で滴り始めた。

――くそ!

手の甲で血を拭う正樹の脳裏にその言葉が巡った時。

健二が今度は仕返しとばかりに、正樹の腹目がけて飛びつく様に膝蹴りを見舞った。正樹は激痛にたまらず縒れた足の片膝をついた。

健二はもう一発容赦なく顔めがけて蹴りを入れにかかった。が、しかし、それを止めた。その代わりに、荒くした息を落ち着かせながら健二は言った。

「お前は本当に昔と同じで相変わらず馬鹿だな。おい、正樹。お前、もしかして昔のこと一々思い出して俺に殴り掛かってきたのか?」

正樹は苦しい顔をしながらも、健二を思い切りに睨み付けた。

「本当にどうかしてるな。お前」

健二は唇を歪めた。

「お前は俺を相当苦しめたんだ。近くで見かけといて、何もしない方がどうかしてるだろ?」

健二は舌打ちして呆れた顔を見せた。

「そんなこと早く忘れりゃときゃいいのに……。おい、もうだいぶ前に終わった事をわざわざ掘り起こすなよ。思い出す度に、逃げた自分が情けなくなるだけだろ? え? 違うか?」

健二の哀れな嫉妬のせいで、正樹は随分と辛く苦しんだ。その傷跡の痛みは今でも終わることなく続いている。それを簡単に忘れろだと? 正樹は改めて健二に対して激しい怒りを覚えた。が、しかし、健二の言う事も少しは当っていた。

確かに、自分が弱く逃げた為に、恵とは終わった。それを思い出す度に、自身がとても情けなくなる。仕舞いには正樹を将来救ったであろう、とても良い女性だった香織とも最近別れてしまった。

健二の言うとおり、香織と付き合った段階で、過去の事など、あたかも痛みが完全に麻痺したように忘れてしまえば良かったのかもしれない。そうすれば、健二と今日此処で会うこともなく、全ては幸せな方向へと新しい人生は進んだだろう。

しかし、運命はそれを拒んだ。そして過去を遡るように、こうして健二と偶然再会してしまった。

正樹は今日、その運命から逃げなかった。この先、それがどういう結末へと導かれる事になるのかは果たして知らない。

当然、正樹はこれから自分が生と死の狭間にある世界へと向かう等と予期して居るわけがなかった。

健二が、黙り込んだ正樹を見て図星だと勝手に察した。彼は調子に乗り話を続けた。

「そう言えば、お前の相棒だった智彦も馬鹿な奴だったな。簡単に階段から転げ落ちてよ。でも、まさかあれで死ぬのは計算外だったし正直言って驚いた。けど、それよりも、恵のあの身体は良かった。あの女は本当に最高だったよ。まあ、どれも逃げたお前には関係の無い話だな」

――何? 簡単に転げ落ちた? 恵の身体?

健二が発した言葉に、正樹は一瞬、気が動転した。

――この男は一体何を言っているのだろう。

正樹の思考に、想像へ対する拒絶反応が作用する。正樹は信じられない気持ちで訊いた。

「お前。お前、智彦と恵に何したんだ?」

健二はフンとした態度で喋った。

「智彦は単なる事故さ。俺は悪くない。それと恵はな、お前が居なくなった後、みんなで犯したんだよ。いやあ、さすがに興奮したよ。今思い出しただけでもビンビンする」

正樹は瞬時に殺気立った。もはや思考は我を失い一つの赤色に染まっていた。

「この野郎! 殺してやる!」

正樹は体ごとぶつかる様にして健二に殴りかかった。一発、二発、健二の顔面を捉える。しかし、健二はそれに対して応戦し、同じ数だけ正樹へ殴り返してきた。揉み合いながらの激しい殴り合いは、人目を気にすることなくしばらく続いた。

「二人とも、お店の前でやめて!」

途中、騒ぎを聞きつけて店から出てきた明美が止めに入ってきた。

「お前らもう止めろ! ほら」

一緒に様子を見に来ていた勝則も直に仲裁に入った。

「覚えてろよ。お前だけは絶対に許さない。いつか殺してやるからな」

喧嘩を止められた直後、正樹は恨み顔で睨みつけながら健二に言った。

「今やってみろ。ほら、どうやって殺すんだ? 見せてくれよ」

健二は蹌踉めいた声ながら言い返した。

「お前は本当に最低以下だな」

何やら突然うんざりした感情が込上げてきた正樹は、疲労した声で言った。実際、くたくただった。

「最低以下だ? 女捨てて逃げたお前には言われたくないな」

健二はそう吐き捨てた。しかし、正樹と同じで声には力がなかった。疲れたのは健二も一緒。

「お前は人生も含めて全部クズだ。もしかして、姉貴もそうなのか?」

正樹は健二の姉である小百合が亡くなっている事を知らない。勿論、昔、健二と小百合が共に里親へと出ていた事は知っているが、姉の方は中学卒業後、島から本土へと就職したとしか話は聞いていなかった。

「この野郎……」

健二は自分よりも姉の小百合の事を言われて思い切りに腹を立てた様子だった。少なくとも正樹にはそれが分かった。

「おいおい。お前ら、どう言う関係なんだ?」

会話に勝則が割って入った。

「昔の知り合いで、別に大した関係じゃないですよ。勝則さん、俺、今日はもう帰ります」

何だか完全にやる気を失った正樹はそう言った。

「あ、ああ、そうだな。そうした方が良い」

この場はとりあえず沈着したかのように誰の目からも見えた。勝則は明美にタクシーを呼んでくれと頼み、彼女は先に店に戻った。その後、正樹はテーブルにおいてある携帯と煙草を取りに勝則と店の中へ一旦戻ろうと健二に背中を見せた。しかし、その時。

健二がたまたま直側にある花壇の上にあった建築用ブロック一つを力強く掴んでは、それを両腕で思い切り高々と持ち上げた。そして、その目一杯の高さから、正樹の後頭部目掛けて思い切り強くブロックを叩き落とした。

ガツッ!

一瞬、辺りにはそれ以外の音は聞こえなかった。正樹は、重く鈍い音と共に来た脳へ行き渡る激しい目眩を感じながら横に倒れた。更に倒れた場所が不運。正樹は狭いスペースに作られた花壇の角に、とても強く頭を打ち付けたのだ。

「殺すってのはな! こうやるんだよ!」

健二は発狂した様な大声で、頭から血を流し倒れている正樹に向かって言った。そして彼はよろめきながらもこの場から逃げるように立ち去った。

余りに突然の事件に、勝則は頭を真っ白にして直には動けず、健二の逃げ足を声ですら止める事が出来なかった。彼が呆気にとられた状態から事態を把握した頃には、健二の姿はもう何処にもなかった。

正樹は凄まじい痛みに一瞬何が起きたのか分からなかった。彼は動こうとしたが、脳はその指令を体の筋肉へと伝達する事をしなかった。正樹の全身は完全に麻痺した。

「正樹、正樹、しっかりしろ! おい! 誰か救急車!」

薄れゆく勝則の声を最後に、正樹は深く意識を失った。

 

正樹は今、夢とも現実ともいえない世界の中に居た。それはとても暗く寒い空間。正樹は其処で、自分のこれまでの人生を見た。

只、漂うような感覚が今、皮膚の表面全体から感じる。正樹は暗闇に限りなく近いこの空間に一つだけ灯された光の中を、今、静かに覗いていた。

光は、彼自身の記録を全て配列し映し出した物体。それはまるで、螺旋を描くDNAの様に、一つ一つの記憶が下から上へ繋がり捩れて伸びていた。光によく目を凝らすと、その中には、これまでの自分の記憶には無い記録が潜んでいる事に正樹はふと気が付いた。が、しかし、それでも今の正樹は、無表情に只それを含めて眺めているだけ。

途中、魂であろう正樹自身の一部が小さく千切れ、一つの光景の中へと消えた。直後、入り込んだ場所となる光景が、全体を描いて脳裏へと鮮明に浮かび上がった。正樹は瞳を閉じてその光景だけに集中した。

 

そこは小さな島。海の向こうから吹き付けるとても爽やかな風から、潮の香りがほのかに匂う。島の中央に位置する小高い丘には、白く大きな灯台が見えた。

幾つかの家々から一直線に伸びた先に広がるとても青く澄み切った海。渚が奏でるささやかな波しぶきは、その光景にとても合っていた。

正樹はこの島で中学生の恵に会った。靡かせる長い黒髪に遠くを眺めている横顔。彼女は小さな学校近くの浜辺で一人座っていた。正樹はこの夢の様な意識の中、口を閉ざしたまま恵の隣に座りつつも、景色がとても広いこの場所で、恵と同じように遠くを眺めては少しばかりのぼんやりとした時間を過ごした。

恐らく正樹が隣の恵に言葉を発しても返事はこない。正樹は無意識にも、自身が幻であることをあたかも最初から悟っているかのよう。

少し時間が経過したところで、突然この世界全体の映像がかなり滲み出しはじめた。正樹はハッとして気がつき、周囲を素早く左右に見渡した。すると、世界は再び滲みから元に戻った。だがしかし、今居る世界は先ほどとは全く逆の夜へと変貌ており、また、先ほどとは異なる場所になっていた。どうやら時間と場所が瞬時に入れ替わったらしい。正樹は心底から驚きながらも我に返りそう悟った。

此処はちょっとした集落の端にある民家の裏辺りだろうか? 正樹は今、少し宙に浮いた状態で上から周囲を確認している。それから彼は地上へ足をつけた。ちょうど目の前は、民家のある部屋の外に位置していて、部屋の明かりが窓から何気なしにこちら側へとこぼれている。その窓の隙間から、誰か大人の男性一人が正樹に気付くことなく身を潜めて中を覗いていた。どうやらこの者は変質者らしい――と、正樹は直ぐに勘付いた。

正樹は試しに声を出そうとした。が、しかし、その時。

突然、男は窓の隙間から目を離し、この民家から何件目かの家へと足音を殺しながらも、しかし急ぐように正樹をすり抜け逃げて行った。

「誰?」

一足遅く女が部屋の窓を思い切りに開けて顔を覗かせた。恵だ。

正樹は突然のことに驚きの表情を浮かべた。彼は思わず壁をすり抜けて恵が居る部屋の中へと入り込んだ。部屋には、恵の他に誰かは分からない大人二人が居た。家主夫婦だろう。それは考えるまでもなかった。恵の話し方から察するに、その夫婦は恵のいとこか何かなのかと正樹はふと思った。施設を出てから恵へ会いに行ったとき、園長から聞いていた話とこの時を彼は結びつけないで居たのだ。いや、突然のことで思い出せなかった。夫婦は里親だと正樹が気付いたのは、その後の話から。

恵は家の主達に今の出来事を話している。すると、何と言うことか、健二と姉の小百合の事がいきなり話題に出てきた。そして正樹は、健二の姉である小百合が里親に出ている最中に自殺したと言う事を此処で初めて知った。

正樹は殴り合いの喧嘩の後、健二に吐き捨てた言葉を思い出した。

「お前は人生も含めて全部クズだ。もしかして、姉貴もそうなのか?」

あの時、腹を立てた健二の顔には、深い悲しみもうっすらと確かに見えた。事を知った正樹は、とても深く心が痛んだ。

恵が突然、とても哀れみに満ちた感情で泣き出した。

「何て可哀想な人なの……。壊されて、盗まれて、無くして……、幸せが見えなくなって……、過ちが間違いじゃないだなんて……。辛かったのよ。そうよ、健二のせいなんかじゃない」

恵は号泣しながらも懸命に言葉を発していた。

「恵――」

正樹は思わず声を溢した。しかし、当然それは恵には聞こえない様だった。正樹には恵が何の事を言っているのかが分かった。彼は、その恵の優しすぎる姿に改めて思い切りに心を打たれた。

若くして最悪とも言うべき形で最愛の人を亡くした途方もない苦痛は、恵にも正樹にも気持ちがよく分かる。施設という他人ではとても癒すことが出来ない寂しさの中で、健二にとって姉だけが優しさと温もりを感じる最後の存在だっただろう。それが奪われたように目の前から突然と消えた。健二は良くて性格が荒れてしまった訳じゃない。たとえ大罪でも、全ては狂わされた運命が犯した罪。これは夢か現実なのか分からないが、正樹も恵の気持ちに合わせるように、そう思う心を持ち、そして健二がいつか悔い改め報いる事を願いながら彼を許す事にした。恵は側にいる大人の女性に訊いた。

「恵美おばさん、もう一つの姉弟は幸せに生きてると思う?」

「勿論よ。天国と地獄があったとして、二つが全く同じなんてことは無い。小百合ちゃんはね、きっと天国で幸せになってるはずよ」

正樹は恵がもう一つの世界の事を指していると察した。彼はまた同じ様に、もう一つの世界の健二と小百合が、どうかとても幸せであるようにと心から願った。

正樹は無意識に再び外へフッと抜け出ては、最初居た位置に立った。そして、まるでこの光景から薄れ行くように、そこでゆっくりと目を深く閉じようとした。その時。

誰?

恵の心の声が正樹の耳に届いた。正樹は、はっきりと届いた声で目を覚ましたように意識を再びこの世界に戻した。

恵は玄関から外に出て、正樹の立つ場所まで急ぐように回り込んできた。そして彼女は、彼の目の前で立ち止まった。この時の恵は正樹が完全に見える様子。正樹は一瞬戸惑ったが、口を開いた。

「久しぶりだな、恵。元気そうで、良かった」

「あなたは、誰ですか?」

正樹はその言葉にハッとし、今の自分自身は一体何なのかを考えた。答えは出なかった。恵は相手が正樹だと言うことにまだ気付いていない。いや、気付いては居たが、まさかという気持ちの方が大きすぎた。

「お、俺は……」

正樹はそれ以上の言葉を発せなかった。何処までも優しい恵は、正樹に言った。

「怪我してるみたい。大丈夫ですか?」

恵がそっとこちらへ近付こうとした。その瞬間。

正樹自身が中学の頃の自分とノイズがかかったようにして何回もブレた。それはあたかも自分の身体が「俺は正樹だ」と発しているかのよう。恵は目を大きく見開いた。

「――正樹!」

相手は正樹だと知り、彼女が思い切りに言葉を放ってきた。正樹は返事しようとした。が、しかし、それと同時に、彼はこの場所から突然、消されてしまった。

 

正樹は空間の中で再び目を開いた。今のは夢だったのか? 彼には分からなかった。

一呼吸置いたあたりで、またしても正樹自身の一部が痛みもなく小さく千切れた。そして先ほどと同じ様に、一つの光景の中へとそれは消えて行った。今度はなんだろう? 正樹は再び、先ほどと同じく目を深く閉じてみた。

 

その世界はまるで違っていた。場所は下校時の夕方。向こう側から伸びてきている公園の中にある道を、高校生のカップルがこちらへと向かって歩いてきた。

ここは公園の高台に位置する場所で、丘の下に町並みと西海岸が一望できる。正樹の直目の前には、塗料でウッドに見せかけた固いコンクリートのベンチがあった。

制服姿の二人は、向こうから歩いてくるなり、正樹の影を通り過ぎて其処に座った。正樹の体はまるで空気の様に、二人を何の抵抗もなくすり抜けさせた。

周りには正樹と二人以外の人は見当たらない。正樹は、二人が自分の体をすり抜けた事実よりも、二人が智彦と恵である事に対して驚いた。二人はどうやら正樹の存在に気付いていない。

座り込んでから話をしだしたのは、恵の方から。

「夕日、綺麗だね……」

太陽と上空はすっかりと赤に染まっている。欠片へと変わり行く太陽の下で、地平線が涙を浮かべた様にして揺らいでいた。

「ああ、そうだな……」

智彦は恵の言葉に声で頷いた。

「正樹も同じ高校だったら良かったのに。ほら、中学の時、三人で夕日見たことあったでしょ。あの時は、本当に綺麗だったな……」

思い出に耽るように恵は呟いた。その言葉には、何となく切なさが漂って感じた。

「正樹が居ないと少し物足りないってやつか?」

恵の感情を逆撫でる様に、意地悪く智彦は恵に訊いた。

「そうじゃなくて……。ほら、ずっと三人一緒だったじゃない。だから」

恵は戸惑いながらも智彦にそう返した。

「そうだな。あいつが中学の時、転校してきてからずっとそうだった」

二人はせっかくの雰囲気が台無しになった気分。夕日が今、完全に揺らいだ地平線へ沈もうとしている。黄昏から寂しさを感じながらも、智彦が口を開いた。

「なあ、恵」

「ん?」

恵は気分悪くした様子を隠すように優しく発した。

「いい加減、正樹の話やめて、俺だけ見てくれないか?」

智彦の言葉に恵は再び戸惑いを見せた。

「御免。あたしはただ」

智彦が遮った。

「分かってる。お前は正樹の事も俺と同じくらい好きなんだろ? いや、もしかしたら俺よりもあいつの事の方が好きなのかもしれない」

苛立ちを押える様子で智彦は言った。

恵は何も返せなかった。智彦は続けた。

「でもな、恵。今、お前は俺と付き合ってる。そうだろ?」

智彦の言いたい事は尤もだった。この世界の恵は正樹とではなく智彦と交際している。だから彼は自分と正樹を同じ感情で見て欲しくなかった。恵は少し考えてから答えた。

「分かった。これからは智彦の事だけ考えるようにするね」

恵はやがて紫色に変わった空を見上げてから下へと俯いた。

彼女は呟く様に力なく智彦へ発した。

「御免ね。あたしがいつも正樹の話しするから……」

「いや、別に謝るなよ。俺はただ本気で好きになって欲しいだけだからさ」

「うん、分かってる……」

俯いた恵の横顔を長く艶のある黒髪が隠しており、横に座る智彦の方からは彼女の表情を確認する事が出来なかったが、その言葉には、薄らと涙が込上げている事が感じとれた。智彦は何だか距離を更に開けてしまったような気がして気持ちが焦った。彼は恵を此方へと引き寄せる思いで言った。

「恵。キス、しないか?」

「え?」

恵は思わず智彦に顔を見せた。やはり目には涙が滲んでいた。

智彦は構わず顔を恵へと寄せてキスを迫った。恵はハッとしながらも、智彦に合わせてそっと瞼を閉じた。瞬間、溜めていた涙が、遂には彼女の頬を伝った。

二人は、とても長いキスを交わした。

正樹はたまらず目を見開いた。すると今、頭の中で覗いていた光景が瞬時に消え去った。

「智彦……。どうしてお前が恵と……」

正樹の感情は、二人を相手に渦巻いた。恵、どうして智彦と……。

正樹は過去に見た同じ世界で薄々とは気付いては居たが、やはりどうしてもその世界の現実を突然には受け止める事が出来なかった。

智彦は中学の時に同級生の恵と付き合い、そしてそれは高校でも続いている。正樹は二人とは違う進路を選択し、二人から離れた。それがもう一つある世界の運命。

正樹は二つの世界の運命は決して同じでは無い事を分かっているつもり。しかし、これではあまりにも彼にとって残酷だと言えた。只、もう一つの世界の恵も正樹の事を思っていると言う事が、彼にとって唯一の救い。そうではなかった。

だからと言って恵の運命は智彦を選んでいる。それをたった今、自分は確かに目撃したではないか。やはり、もはや心中は絶望。

結局、自分と恵は縁が無かったという事なのか? 頭の中でそう思いながらも、正樹はもう一つの世界におけるこの先が気になった。

「この先、一体……」

正樹は無意識に呟いた。その直後。

「それを知りたいかね?」

何処からともなく男の声が突然と聞こえた。それは、何かとても懐かしい声色に近かった。

「誰だ?」

目の前に見えていた螺旋状の記憶の塊が何時の間にか消えている。正樹は完全なる暗闇の中を、焦点を何処に合わせれば良いのか分からないままに、辺りを見渡す素振りをした。

「私だよ」

声がまた届いた。一体誰で、そして何処から喋っているのか? 正樹は思った。彼は暗闇による少しばかりの恐怖を感じながら、焦り気味に訊いた。

「何処だ? 何処に居る!」

「此処だよ。見えないかね?」

声は間違いなく直近くから聞こえていた。正樹は周辺を手探りした。しかし、何一つ手に物はぶつからず、誰も居ない様だと察した。彼の頭の中は少し混乱した。

こんなにも暗闇に拘らず、相手は正樹の全てに気付いていた。

「まだ分からないのかね? 正樹君、此処だよ。此処。私は君の中に居る。私は君が作り出した心の光の中に居る物体の無い魂だよ」

正樹はハッとした。

「え? 心の中に居る魂? これは俺の中から聞えているのか?」

正樹はとても信じられなかった。だが、良く感じてみると、確かに声は自分の中からも聞こえてきているようにも思われる。

そんな、まさか――。

しかし、正樹はこの不思議で夢のような空間の中において、それは十分ありうる事だと考え直した。

「そう。やっと分かったようだね」

まるで心を見透かしているかの様に相手は言った。

正樹は相手が自分の声ではない事から、今聞こえている声の主は神なのかと、咄嗟にそう思って訊いてみた。相手は直に答えた。

「確かにそう呼ぶ人間も居る。しかし実際には神とはもっと違う特別な所にある。つまり私は君自身であって神ではない」

だが正樹は、この相手を神だと心に決め付けた。そしてこの神によってもう一つある世界の続きを知りたいと言う気持ちを走らせた。

「教えてください。俺は、いや、智彦と恵はこの先どうなるんですか?」

「本当に知りたいのかね?」

正樹はコクリと頷きながら「はい」と答えた。

「二人は順調に交際し、そしてやがては婚約する」

「婚約? 二人は将来結婚するという事ですか?」

「全ては君が作り出した未来だ。そして運命はそう辿り着いたんだよ」

「え? 俺が作った? どう言う事ですか?」

正樹は訳が分からなかった。自分が智彦と恵の運命を作ったとでも言うのか?

「君が協力して彼と彼女は結ばれたんだよ。そして、もう過去を変えることは許されない。君の居た世界でも、もう一つの世界でも、君が想う女性、つまり恵とは永遠に繋がる事は無い。もう終わったんだよ。残念ながらね」

なんだって? 俺が協力しただと? 正樹は驚いた。と同時に思考を巡らせた。

段々とだがある程度の事実が見えてきた。とにかく、もう一つの世界の正樹も恵の事が好き。それは今聞こえる相手の話から伺える。しかし、恵と互いに惚れあっているにも拘らず、二人は結ばれなかった。それには、恐らく智彦の気持ちの存在があったからだろう。

この世界では、智彦も正樹と同じ位に恵の事が好き。それで正樹は智彦に譲った。つまりは、正樹は恋ではなく友情を選んだ。そして恵は、二人の関係が壊れぬ様にと、正樹の気持ちを考えて智彦の告白を受け入れる事にした。恐らくはそう言う事だろう。

もう一つの世界の運命をあくまでも想像の中でだが悟った正樹の中で、急に怒りとやるせなさが爆発した。彼はたまらず、「そんな馬鹿な話があってたまるか!」と空間に響くほど大声で発した。

思い切りに声を発した後、正樹はがっくりと肩を落として俯いた。すると、今度は何だかとても悲しくなってきた。彼は力なく震えた声で呟いた。

「どうして、どうしてなんだ……」

正樹はとても辛くて泣き出しそうになった。自分の人生は二つ共に自らあらぬ方向へと進んでいる。それがたまらなく悔しかったのだ。

「君の気持ちは良く分かる。しかし、君が決めた運命――」

正樹は言葉を遮り思わず発した。

「違うんだ! 神様……お願いだから訊いてくれ! 違うんだよ」

正樹は諦め悪く縋る素振りで両腕を前方に伸ばした。やはり目の前に人らしき感触などなかった。彼は気付かぬ内に、とうとう涙を流していた。

「私にあれこれ言っても仕方がないだろう。忘れてはいけないよ。私は神ではなく君なのだから。これから君は向こうでも此処でもない世界で永久に過ごす事になる。それがこれからの君の運命なんだよ。納得が行かなくとも、もう決まった事なんだ。諦めなさい」

それを聞いた直後。

何やらとても恐ろしい気配を正樹は感じた。それには、まるで冷めたスープのように温かみ等というのは一切無く、感触の瞬間から気持ちの良いものではなかった。殺気がした途端、正樹の身体に屍の手が無数と纏わり付いてきたのだ。

気持ち悪い感触以外に何も見えない物体――。

それは、彼を完全なるあの世へと道連れにする為に現れた、未だに浮かばれない黒き魂の集団。

正樹は察した。が、しかし、もはや遅かった。

既に屍の手が容赦なく正樹の体の至る所を掴んでは、此処ではない何処かへと引きずり込もうとしている。

一体どこへ連れて行こうというのか?

瞬時に正樹の脳裏へ浮かんだ答えは、天国か地獄かまだ分からない完全なるあの世。

正樹は、全身の彼方此方掴まれた無数の手を解こうと、とにかく力の限り藻掻いた。

「嫌だ、まだ行きたくない。恵と智彦に……ちょっと待て。や、やめろ、やめてくれ!」

「止めて欲しいのかね?」

「そ、そうだ。俺はまだ行きたくない。行くわけにいかないんだよ! や、やめろ!」

正樹は必死に抵抗した。

「そうか。それならば、君は此処で永久に過ごすしかない。この暗闇の中でね」

「そんな……」

正樹は絶句した。直後、屍の手が一瞬で全て消えた。正樹は解放された。しかし、彼は決して素直に喜べなかった。何故なら、途方もなくこの空間に閉じ込められるのも御免だと言う気持ちが、直に頭の中を過ったからだ。見えぬ相手は最後に言った。

「さようなら。正樹君」

「お、おい、ちょっと待て!」

言葉は返ってこなかった。正樹は突然一人、この空間に取り残されてしまった。

今、この空間は記憶も何も無いただ真っ暗な世界だ。それは、これまで一度たりとも経験した事が無い黒。その黒へ対する恐怖と絶望感は、とにかく想像を絶した。

正樹は震えながら呟いた。

「何でこんな暗い所にずっと閉じ込められなきゃいけないんだ?」

言葉は誰にも届いていない。

今度は急激に寒くなってきた。光が一切無いからだろう。もはやその空間が温まる要素が何処にも見当たらない。当然。

「寒い……、寒くて死にそうだ。誰か出してくれ!」

段々正樹の精神が異常化してきた。今にも狂いだしそう。

「お願いだ。もう一つの世界でも何でも良い。だから戻してくれ! お願いだから、誰か!」

やがて正樹は発狂した挙げ句、この空間でも気を失ってしまった。

 

正樹はハッとして目を覚ました。どうやら今見ていたものは夢だったようだ。それにしても酷い悪夢。彼は思った。

今、どこか分からない場所で仰向けに横となり天井を見ている状態。正樹はこの横になった状態に対して、何やら違和感を覚えた。それは場所がどうとか言うことではなく、自身の身体がまるで宙に浮いているかの様にふわりとして感じたからだ。

服は寝間着のような衣類にいつの間にか変わっている。彼は自分の背中より下から様々な機器の音や人の声、そしてまた、消毒液の様な余り嗅いだ記憶が無い匂いがする事にふと気が付いた。

正樹は思わず寝返る様にして下を確認した。

彼が目を向けた其処には、何と、危篤状態である自分の姿があった。正樹は驚愕した。

脳挫傷で意識不明の重体。現段階では生存確率は極めて低く、たとえ奇跡的に意識を回復させたとしても、後遺症によって社会復帰までには大分時間が掛かるという話を、駆け付けた佐代子達は聞いていた。

「そうか……、俺、病院に運ばれたのか……」

正樹は自身がまだ完全に切り離されていない霊体である事に気付きながらも、事件があった夜の出来事を思い出してそう呟いた。もしかしたら、先ほど夢だと思っていたのは、実は本当に起こった出来事だったのかもしれない。正樹はそう感じた。

彼は危篤な自身の姿を見るのが嫌になり、集中治療室から出る事にした。勿論、幾つかの機器音、臭い、そして室内は明るいがそれに反した重い雰囲気に嫌気が差したせいもある。

正樹は扉の近くから向こう側へと、仕切られた壁をスッと音もなくすり抜けた。

室から出た所で細長い待合用のイスがちょうどあったので、彼はそこにとりあえず腰を下ろす事にした。どうやら意識的に、物に触れたり抜けたりが出来る事を彼は知った。

待合室には、他にも手術後の全身麻酔から目を覚ます患者を待つ親族などが何組かおり、皆、一斉に一台のテレビをやつれ顔でボーっと眺めていた。当然、正樹の存在には誰一人として気付いていなかった。

正樹は何気に前方にある向こう側を見た。窓の外は明るい朝を迎えたばかり。彼は両手を組んでは両膝の上に顎杖を付き背中を丸くした。そして考えた。

この先、自分はどうなるのだろう?

しかし、答えは当然見つからない。正樹は落ち込むように深い溜め息を一つこぼした。その時。

「正樹君――」

昔よく聞きなれた声が、正樹の右耳をかすり行く気がした。

正樹は何気に声のした方向を見た。

目を向けた先には、六十を越えている事が見た目からすぐに分かる男性が立っていた。

髪は真っ白で、身なりと共に顔中にシワが目立つ。この目の当たりにしている光景は不思議なことにこの老人以外は焦点がずれたようにぼんやりとしていた。

正樹は間違いなく何処かでこの老人の姿をすべて全く同じで見た記憶があった。

果たして、いつ? そしてまた誰だったか? 正樹は記憶から探った。しかし、今すぐには思い出せなかった。

二人は少し離れている。

正樹の目は老人を見つめながらも無意識に瞬きを一つした。その瞬間。

左の肩に誰かが優しく手を置いてきた。

見つめる方向に居た老人の姿は何故か消えている。正樹は訳が分からぬままに気配のする方向へと顔を移した。すると、老人は其処にいた。

正樹はこの一瞬である今起きた出来事に目を見開いて驚きながらも、記憶の中から一人の人物を蘇らせた。

「園長先生!」

「元気そうだね。いや、その言葉は、今この状況にはふさわしくないかな?」

正樹は立ち上がろうとした。が、それより先に園長が正樹の隣へ座った。

正樹の脳裏には、土砂降りの中で恵と密会したあの時の記憶が蘇っていた。間違いなくあの日見た園長と今見えている人物は、顔も着る物も全てが同じ。

「園長先生。どうしてここに?」

「運命だよ。正樹君。私も君も運命によって此処に導かれた。まあ私は暗闇の中に無数ある光の塊から偶然見つけた君の記憶へと私の中にある一つの魂が入り込んで今居るわけだが」

園長の話す暗闇は、あの夢で見た空間を指す事を正樹は察した。つまりは、今、目の前にいる園長は魂だけだと言うことになる。正樹はそこまで分かった。

「本当に不思議な出来事は何度経験しても慣れないものだ。実は言うとね、君の記憶に私の魂が入ったのはこれで五回目なんだよ。いや、私は神を信じる立場にある人間だが、それでも正直驚いている。過去に夢で見た通り、二つの世界は確かに存在し、そしてまた、様々な動物の記憶の塊が集合した不思議な空間と今のこの自分があるんだからね」

――様々な動物の記憶?

自分が夢で見た空間とは違っている。正樹は思った。しかし、どうやら夢だと思っていたあの空間は現実にあって、また、その中は人によって異なるらしい。

自分の見たもの――。もしや空間のあれは地獄だったのではないだろうか?

正樹は一瞬、思考の中で鳥肌が立つほどに身震いした。

「今日は朝早くから家の近くで散歩を楽しんでいると、突然事故に遭遇してしまってね。たった今、近くの県立病院に運ばれた所なんだが、私の場合、もはや手の施しようがないらしい。間もなく自分の人生は終わる」

園長はさらりと話した。

正樹はこれで園長が何故この状態で居るのかまで理解できた。園長は続けた。

「しかし、この状態になってからの時の経過は本当に遅い。事故に遭ってから時間はそれほど経っていないのに、もう私は三日分ほど色々と動いた気がする」

園長は視線を俯かせ、何かを思い出したように少しだけニヤリと笑った。

「園長先生」

「ん? 何かね? 正樹君」

「自分も園長先生の言う暗い空間を見ました」

「そうだろう。でなければ、君は此処にこうした姿で居ない」

園長は窓外を視線を上げて見た。

「自分は、自分は神なのか何なのか分からない相手と話をしました」

「話をした? その存在とかね?」

園長は正樹へ顔を戻した。

「はい、それは神ではなく俺自身だと言ってました。でも、それは神だったと自分は思っています。とにかく、自分の見た空間は地獄でした」

「正樹君。神の存在は物体ではない。だから実際に話す事は出来ない。しかし、神とは紛れもなく形のある存在だ。例えば神が本当は存在しなかったとしても、信仰により人は癒やされ勇気付けられ、そして救われたならば、その清き良き偽りから人々は形ある光を見た事になる。神の存在とはそう言う物だよ」

「それじゃ、あれはやっぱり自分自身だったと言う事ですか?」

「あれが何を指しているのか私には分からないが、それは神ではなく君だと言ったんだ。いいかい? 正樹君。光の中にも色々とある。善があれば悪もあるようにね」

と言う事は、もしや、今まで見た光は自分が起こしたと言う事になるのか?

正樹は自分の内だけでそう巡らせたつもりだったが、無意識のうちに独り言で呟いていたようだ。園長がそれについて返してきた。

「そうだよ。正樹君、全部が全部ではないが、君が見た光の内幾つかは、その空間で君が起こした事だ。智彦君が消えたあの夜の後、光は自身が見せている事に薄々と君は感づいていた。君は恵君にこう話していたね。光は未来の自分が見せているではなく、それは見た感覚なんだと。あの時君は気付いていなかったが、私は君の前から智彦君が消えた記憶にも先ほど行って見ていたんだよ。その直後、私は君を養子として迎え入れる事になる上間良晴君の見える記憶に先回りしたというわけだ。しかし、勘違いしてはいけないよ。私は君の運命を変えたわけではない。私は只、魂がさ迷うがままに身を任せただけなんだからね。いや、私は行き交った。そうする事が、私がこの世界で最後に行うべき運命だった。そういう事だよ。正樹君」

確かに先ほどの、あのとても寒く真っ暗な空間にいる事に気づいた時、過去の出来事を自分は幾つか覗くようにして見た。その内二つは中にまで魂が入り込んでいる。また、ただ一つを省けば、全て第三の視線から見たもの。

――それじゃ空間から覗き見る事も入り込む事もしていない、過去に起きたその他の現象は一体?

「神は人それぞれにある物で、世界に一つではない。つまり光は全て自分自身が見せたものではないんだよ。過去の君が今の私を見た様にね。これで納得がいったかな?」

正樹は一瞬、またしても自分は無意識に呟いていたのかと思った。が、しかし、それは違うと分かった。園長は正樹の心の呟きも聞こえていたのだ。

「過ぎ行く人生はもはや誰も変えることは出来ない。だが、行動を起こすことは出来る。しかし、君は残念ながらもう現状から戻る身体ではない。もうすぐ君は永遠に深い眠りにつくことになる。だからこれから言う私の話をよく聞きなさい」

自分は死ぬのか? 正樹は自身が亡くなると知らされた途端に突然、全身が重くなった。園長は実にゆっくりとした口調で続けた。

「いいかね、正樹君。人生というものには、実は二通りのシナリオがあって、それはDNAの様に、螺旋状にその生き物の生涯を形成し同時進行している。人生の中には運命を左右するという言葉があるが、それはその太いAとBの間に描かれた線の事を意味していてね。つまり、運命の分かれ道というものは、ちゃんと目に見えて存在してあるわけだ。そしてね、正樹君。例えば、片方の世界で人は悩み苦しみ、その結果、もう一つの世界へとその人が選択すれば、そのもう一方の世界へと向かわれるこの分かれ道の中で、実に様々な出来事が必ず起きる。中で愚図ついたり、辿り着けずにやはり引き返したり、もう一つの世界を見た錯覚のまま戻ったりとする事もあるだろう。勿論、戻ったつもりでも、それは実際には新しい道だったりすることもある。つまり、同じ道を利用して自ら意識的に世界の場所を決定し瞬時に行き交う事は、たとえ今ある霊体でも残念ながら普通の人間には出来ない。しかし、驚いちゃいけない。実は言うと、私はその自ら考え行き交う方法を、不思議なあの空間の中で偶然知ってしまった」

正樹は目を見開いた。

「それじゃ、もう一つの世界へ意識して移動する事が出来るって事ですか?」

「まあ最後まで聞きなさい。だが、移動できた所で決して忘れてはいけない。しつこいようだが、生き物の人生は全てDNAの様になっている。その為、過去や未来といった形の中にあるものを、二つの世界から完全に消去したりするということは残念ながら出来ない。もし、出来たとして、しかしその行為を行えば、自身のみならず関係する物までもが全て完全に元から無かったという事になる。つまりは成立せずに消去されたのと同じ事になるわけだ。全てがあって君も周りも成り立つ。だから、いいかね? 正樹君。それだけは絶対にしてはいけない」

正樹は恵の話を思い出した。確かに最後会ったあの時、恵も同じ事を言っていた。園長の話は続いている。正樹は直に我に戻って聞いた。

「人は何か不幸に合うと、もう選択する事が出来ないもう一方の人生に対して悔やむが、決してもう一つの人生が今のこの世界よりも幸せだとは限らない。また、これから君が向かうであろうもう一方の人生へ更に踏み入ることがあれば、その時点でもう二度と今のこの世界には戻る事は出来ない。それはたとえ耐え難い現実が立ちはだかっていたとしてもだ。つまり、君は辛い人生を二重に繰り返す、いや、これほどに苦しんで来たのにも拘らず、それ以上にもう一つの世界では過酷以上の経験を受けることになる可能性もあるわけだ。君は今夜、完全にあの世へと静かに旅立つ。最悪なまでの世界とはこれでおさらばし、もはや永遠の安らぎを決断する事も、また一つの良い選択技なのだよ」

園長は正樹が世界を一つにしたい、移りたいと考えている事を知っている。もしかすれば二つの世界共に正樹の未来を完全に知る園長が最後、彼に訊いた。

「正樹君。それでも今、君は運命通りに私から方法を聞くと言うのかね?」

まるで正樹がこれからもう一つの世界へ更に踏み入る事が最初から決まっているかのような園長の言い方に、正樹は正直戸惑った。正樹は逆に訊いた。

「自分は此処で方法を知る運命にあったということですか?」

「どうやらそうらしい。私にはとても信じられないが、神はそう決定なさっているようだ。何と言うことだろうか……。君が余りにも哀れでならない。しかし、正樹君。君は……」

園長は言葉を止めた。やはり先生は全てを知っている。

「何ですか? 園長先生」

正樹は気になった。園長は思わず俯かせていた視線を正樹の顔に戻した。

「いや、これ以上話す事を私には許されていない。今、此処で言ってしまえば、君の運命を変えてしまう事になる。正樹君。君は与えられた運命をそのままに受け止めなければならない。とにかく、光の理由を知りなさい。そして最後に、ゆっくりと優しく目を閉じれば良い」

園長はそう言って微笑みながらも、零れるほどの涙を目に浮かべていた。

 

正樹は運命に従い、もう一つある世界を生きる決心をした。

園長は方法を教えた。現実的に世界へ踏み入る方法も正樹は聞いた。

もう一つの自分が眠りについた時に、同じ様な体制で横に重なれば良い。ただそうするだけで二つの体は一体化される。勿論、一体化せずに世界をさ迷い続ける事は出来ないと言われた。

自分が繋がっているコチラの世界の物体が死んだ瞬間に、魂はどちらに居ようがあの世へと移される。正樹にはもう時間が無い。彼は今日死んでしまうのだ。

正樹は園長に三つほどの方法を教えられた。その内の一つは、人生の中で最も大きなポイントへと自動的に向かうと言うもの。そしてまた、園長と違って、運命も特別で無い全く普通の人である正樹の場合、教えられた方法の選択は、行動を含めて一回だけだと言われた。そのため、何処に向かえば良いのか分からない正樹にとって、他にある二つの手段はとても選べなかった。

とにかく、これからもう一方の現実に踏み込む事で、正樹はもう二度とこちらの世界へ戻る事は出来ない。彼はもう一つの世界へと向かった。

正樹は方法を使う直前、自身の世界も見に行ったのですかと園長に訊いていた。園長は勿論、もう一つ存在する自分の運命も見ていた。

園長先生は、過去に医者の道を目指すか否かの選択に迫られた事があるという。しかし、彼は社会福祉の道を選び、留学生を経て沖縄県の職員となった。そして後に児童養護施設の施設長として活躍したわけだが、もしかしたらもう一つの世界では、自分は医者になっているのではないか? 彼はそれをふと思い、気になってもう一つの世界へ方法を使って覗きに行ったらしい。

しかし、最後の答えまでは正樹には話してはくれなかった。

ただ、正樹が園長から一つ悟った事は、園長はこの世界でそのまま生涯を終える事を決めたと言う事。正樹とは違い、もう一つの現実に彼は踏み入る事をしなかったのだから、自身のこれまでの人生に悔いはないと言うことだろう。

完全体である正樹の魂は、もう一つの世界へと辿り着いた。

 

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