連載小説 愛するということ 第一章 4

「み、みんな! ここから逃げろ――!」
近くにベランダ窓がある。長男の豊は先頭で外へ飛び出した。驚くまもなく釣られるようにして残る三人も外へ逃げ出す。そこからは、とにかく走った。どれだけ走ったかは定かではないが、暗い夜道を、海へと繋がる下り坂を、皆、はだしで勢い良く走った。道中、四歳になる四男の亮が躓き転倒する局面などもあったが、長男の豊が泣き叫ぶ彼をおんぶし、再び力の限り行ける所まで走った。やがては走る三人共に疲れが見え始める。
「休憩しよう」
豊はガードレールを支えるポールへ背中をもたせた。弟二人もそれを真似た。四男は、豊の側に座り、転倒した際に出来た傷へ一生懸命息を吹きかけている。
息が落ち着くまでの間、しばらく沈黙が続いた。正樹は、暗い雰囲気を紛らわすように、顔を上げて夜空を眺めてみた。黒に近い紺色の夜空に、無数の星が散らばるようにして見えた。とても綺麗だった。
まるで圧迫するように近くに感じられる星のカーテンの中に、一際輝くオリオン座が見える。正樹はその軸となりうる三つの星を集中して見ていた。
眺めている内にふと、正樹の瞳から涙が溢れ出してきた。起きた状況を何一つ理解できないまま、整理しようとすればするほどに、涙が溢れ出してきた。
もはや感情がやりきれなくなり、正樹は空を眺めるのをやめて泣き崩れた。その気持ちは連鎖的に兄弟にも届き、終いには全員で激しく寂しく泣いた。

滝川寛之の著書一覧
滝川寛之の著書(アマゾン公式)
公式ヒロキリスト一覧

富士通 デスクトップパソコン FMV ESPRIMO FHシリーズ
富士通 ノートパソコン FMV LIFEBOOK AHシリーズ

連載小説 愛するということ 第一章 3

我、波乱万丈なる人生なり――。
数年後、靖子が四男を出産したあたりから、生活は刻一刻と行き詰っていった。家庭崩壊へのカウントダウンは、この頃からあたかも運命の如く動き出していた。
次郎は四男の松田亮が誕生した後、職人の世界へ戻った。しかし、職を転々とする人間は直に受け入れられる事が無く、また、数年以上の離職が、何度も重大なミスを誘った。何事にも循環という性質があるが、次郎の場合、正にそこから悪循環の毎日が襲い掛かる。過去の事件までこの世界では信用があり、当然のように大きな現場を仕切る職長などこなしていた。それが今ではなんとも無様で情けない姿が――。もはや次郎の精神状態はやりきれない所まで全身に行き届いた。帰宅後は酷く酒を浴び、弱い立場の靖子へ憂さ晴らしに暴力を振るう。それからあの事件。暴力が最後だった夜、靖子は出刃包丁をしっかり握り締めていた。
何もかもが悪夢だった。
正樹は何時ものように、父の母へ対する暴行を反対端の方から見ていた。一時の間、静まり返った様に思えた。靖子を殴り疲れた次郎が、用を足しに外へと向ったのだ。その時だった。靖子が台所へ歩み寄った。
ガタ――。音が確かに響いた。
次郎は何か危険な音をあたかも察知した様に、さりげなく振り返った。正樹ははっきりと覚えている。この時、靖子は包丁をへその高さに構えながら、視角の右から左へ足早に抜けていった。母の目つきは瞬時で震撼するほどに、それはとても恐ろしい形相だった。
「ひぃぃ!」
奇声を発したのは靖子の方だった。次郎はもはや一瞬の出来事で、低いうめき声を轟かせながら仰向けに倒れている。止めを一刻も早く成し遂げんばかりに、靖子は次郎の胸付近へまたがり、奇声を発しながら次郎の胸目掛けて何度も何度も包丁を振りかざして突き刺していた。
ようやく殺傷を止めてから一分ぐらい経ったあたりだろうか? 赤ペンキを一気に弾いた様に返り血で服を染まらせた母が、急にニヤリと顔を崩した。彼女は兄弟四人固まったまま立つ方向へかすれ声を発する。
「こっちへおいで……」
口調だけが、靖子に残された唯一の優しさだった。
四人は、ただならぬ空気と威圧感に動く事すら出来ない。
「何もしないから、こっちにきなさい」
母は包丁から両手を離して言った。それから何度も手招きしてみせる。兄弟は思わず目を反らした。刺さった血だらけの包丁が、父の腹上に立っているのが見えた。

滝川寛之の著書一覧
滝川寛之の著書(アマゾン公式)
公式ヒロキリスト一覧

富士通 デスクトップパソコン FMV ESPRIMO FHシリーズ
富士通 ノートパソコン FMV LIFEBOOK AHシリーズ