連載小説 愛するということ 第二章 5

沖縄戦没者の霊は結界を越えて日増しに現れるようになった。どうやら弟子達の知らぬ箇所で結界が破られているようだ。妖精の数も大分減ってきた。長の倫子ですら特に最近多忙でこの事には今日まで気付いていない。正に、第二の結界内に居る恵以外の人間全てが危険にさらされている状況だった。しかし、知子は倫子に話さないで居た。二重に包囲してある結界の話まではまだ聞かされていなかったのである。つまり、結界の存在までは全く知らなかったのだ。知子は無視を続ければ何時かは居なくなるだろうと勝手に決め付けていた。だから周囲に相談するのではなく、一刻も早く“さ迷う日本兵”における“出来事”を、忘れる事に専念した。しかし駄目だった。あの瞬間から男は、誰も周囲に居ない時間だけだが、知子に完全に纏わりついた。何故かは分からないが、どうしても彼は彼女に存在を気付いて欲しいようだった。そして沈黙は、結界が破壊され始めてから三日目の今夜、遂に破られた。
美子、美子……。知子の寝室にうねる様な声がしつこく響いている。
霊が纏わりついてからというもの、妹を自分の部屋で寝るよう話していた為、恵はこの部屋には居なかった。知子は上向きで寝た状態のまま強烈な金縛り状態にあった。
窓外に見える夜空は快晴だと言うのに、不自然にもこの奇妙な現象の時だけは、しごく室内の湿度が高かった。シーツの上に敷いたタオルケットが、雨が降ったかのようにびしょびしょに濡れているのを肌で感じ取れた。彼女は精神的に我慢の限界だった。これで今夜も含み、三日三晩まともに寝れていない。いや、一睡たりとも寝かしてはもらえなかった。知子はとうとう我慢できず、決着をつける決意をした。
「貴方、誰なの?」
 上を向いたまま恐々と言った。彼はベッドの直隣に立っている。
「俺だよ……。誠だよ……」
不思議な事にこの唸るような声は彼の立つ方向からではなく、知子の頭上かつこだま含みに響きながら聞こえた。
「美子……。美子……。お前、無事に生きていたのか?」
どうやら知子の事を、彼の知る別の女性と錯覚しているらしい。
「どうしてこんな所に居る? ここは敵が多くて危険だ。早く東京の実家に戻れ」
少し間をおいてから続けざまに男は言った。彼は妹と誤解している様だった。男は終戦に気付いていない。沖縄戦で没し魂となった時間から一時たりとも時代が経過していないのだ。やはり母が言うように何十年経った平和なこの世界でも戦争は未だに終結しては居なかった。
「私、その人じゃありません。もう付き纏わないで下さい」
「何を言ってるんだ! お兄ちゃんを忘れたのか?」
 怨霊の不思議な力が弱まったせいか、男の声はその口元があるであろう方向から正しくはっきり聞こえてきた。知子の金縛りが完全に解かれた。彼女はそのまま仰向けの状態から声のする方向へ顔を向けた。しかし次の瞬間、再び強烈な金縛りが襲い掛かってきた。もはや目を逸らす事は出来ない。知子は正にこの時から万事休した。
何やら体の全体から蒼い炎のようなガスを放出している彼の目は、とても悲しい出来事を芯から伺わせていた。知子が彼の眼差しを五秒ほど見つめた。その時、これまで彼の体験した沖縄戦における全ての出来事が、あたかも自分の記憶の如く、彼女の脳を鮮明に色濃く駆け巡った。凄まじい念から波動が発生している。知子はフラッシュバックに似た現象の世界へと追いやられ、そしてとうとう記憶の中の人物に化そうとしていた。
 一瞬、ストロボの様な大きな光が部屋中に放たれた。何処からともなく突然放たれた光と共に、知子はまるで電脳が映し出した様な記憶の世界で彼の妹に化した。
二人は今、地下鉄のホームに向かい合って立っている。彼女は目の前に立つ兄の顔を涙目にじっと見つめていた。兄はとても優しくて明るい笑顔を見せていた。
「お母さんの事、頼んだぞ」
「お兄ちゃん……」
千人針を渡したあのホームで、美子と誠はとても悲しく辛い別れを体験した。彼は自ら命を絶つために南の島へ今日旅立つ。万歳三唱があちらこちらで大きく響きながらコチラまで聞こえていた。兄は最後まで涙を見せなかった。列車の四角い窓から満面の笑顔を覗かせて、彼女の目に入る最後の最後まで帽子を握り締めた手を思いっきり振っていた。しかし本当は妹の見えなくなった列車の中で我慢する事無く激しく号泣した。そして思いを込めて念じた。美子……。お兄ちゃん、お前とお国の為に立派に死んで来るからな。
知子は現在の世界へ戻った。彼を見つめたまま止まった目からは大粒の涙が溢れ、流れて行った。
「一緒に帰ろう」
 彼は最後にそう一言放ち、優しい眼差しで手を伸ばした。彼女の魂は完全に彼の記憶の中へ抜け出ていた。今、知子は、彼が没した場面を見終え、そして彼と彼女以外には何も無い真っ白の世界に居る。
「知子! 知子――!」
何処からとも無く母の声が聞こえてきた。しかし、今の彼女は美子であり、知子ではなかった。
「だれだろう?」
彼女は一旦足を止めた後、声のする方向を振り向いた。が、しかし、再び彼女は戦没者と手を繋ぎながら終着のない白い世界を何処までも歩いていった。

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