無料小説 処女作品@「愛するということ」最終章 =52完結=

中学三年になった。正樹にとってそれからが更にとても早く感じた。まるで運命を急がされているかのように、実にあっという間と時間が過ぎて行く。北風が姿を消しては短い春を終えて初夏になり、ふと気がつけば、ジリジリと鳴く蝉の声が、残暑へこれでもかとばかりに響き渡っている。そんな季節の移り変わりを目の当りにした中で、正樹と恵の関係は正に紙一重だった。日射しが徐々に力を無くし秋の気配を思わせた頃、とうとう運命の日が身近に迫ってきた。

「正樹、一つお願いがあるんだ」

その日は木陰に涼しさが漂う晴天だった。更に、時は夕暮れの快適さを与えていた。今日は帰宅した後に、智彦の誘いで正樹は彼と二人きりで公園に居た。

「その前に、話って言うのは恵の事なんだけど……」

 景色を眺めたままで智彦は言った。正樹も同じように並んで下に広がった景色を眺めている。ふと、横にある森の方から野鳥の声が此方へと届いてきた。その時だった。

「俺さ、ずっと昔からあいつのことが好きなんだ」

 少しばかり哀愁を漂わせたような声で智彦は言った。彼はそのままの調子で続けた。

「今度の日曜に告白しようと思ってる」

 智彦の発したその言葉に、正樹は運命の訪れを悟った。正樹は何も返せないままに、何処か別の場所へと記憶が遠のいていく気がした。

「――正樹、お前はどう思う?

 発せられた智彦の言葉は、まるで意識を強制的と戻させられたように正樹へと届いた。

「え? ……」

 正樹は戸惑いながらも訊いてる事が分からないとでも言いたげに答えた。彼の頭の中は今、正に動転していた。

「だから、お前の気持ちはどうなんだよ」

 苛立ちを見せた態度で智彦は言った。

「ああ、そうだな……」

正樹は正気へと戻り、そして冷静に言葉を探した。そして思った。前にも同じ様なことを考えたが、友情が日増しに掛替えのない物となっている今、智彦の思いを裏切るわけにはいかない。ましてやこの世界の彼は、恵の事を正樹よりもずっと昔から想っていた。正樹はそれを思うと、智彦に対してとても哀れにも似た感情にさえなる。やはり、身を引こう――正樹は自分が恵と付き合うことで彼女をまたしても不幸になどしたくはない。自分に縁がないのならば、世界を変える大罪は、やはり全てを良からぬ方向へと未来を進ませるだけだろう。いや、その前に何もかもが消滅してしまう。正樹は、たとえばもう一つとも言うべき第三の現実的世界があったとして、恵に再びと出会い、そして関係を築いただろうと信じながらも、しかし、その三つある全ての世界の内一つだけは、少し離れた場所からそっと彼女を見守る愛し方もあるのだと、彼は心にそう言い聞かせた。正樹は今、遠く上空に見える雲の流れに目を細めた。只、自然と風に流され場所へと向かうその物体は、まるで人生における宿命を思わせた。正樹は、一つ溜息を隠しながらもした後、智彦へ向いた。そして言った。

「お前とならきっと良い方向に行くと思う。俺が言えることはそれだけだよ。大丈夫、全ては上手く行くさ」

 発せられたその言葉は、少しばかり涙混じりと揺らいだ。

「それじゃ、協力してくれるか?

 智彦は笑顔になって訊いた。

「ああ、勿論。……それで、俺は何をすれば良いんだ?

 苦痛に満ち溢れながらもそれを押し殺し、やや無感情的に落ち着いた調子で正樹は言った。

智彦が正樹に寄ってきた。そして彼はまるで誰にも聞かれてはならない様に小声で「実はな、あいつに気持ちを探って欲しいんだ。俺の事どう思っているのか訊いてみて欲しい。それでな、その答え次第で最終的に告白するかどうか決めようと思ってる」と、話した。

「そうか……」

 言って正樹はもう一つの世界の自分を思い出した。そう言えば、恵と関係を持つ前、智彦に相談しようとしていた事があった。それがこの話だ。世界はやはり表裏なんだなと正樹は改めて痛感させられた。正樹は運命通りに言った。

「それじゃ明日、恵に訊いてみるよ」

 自分が頼み込んで、そして智彦が返したであろうその言葉を発した瞬間、何だかもう一つの世界の智彦が、正樹の心の中でとても鮮明に蘇った。それは、懐かしさとは少しだけ違って見えた。

「なら、土曜日には分かるって事だな?

 智彦は訊いた。

「いや、夜、電話かけるよ。早く知りたいだろ?

 正樹はそう言って気を利かせたつもりだった。しかし、智彦の気持ちは異なっていた。

「うん、……でも電話では遠慮しとくよ。誰にも聞かれたくないし」

「そっか……分かった」

 彼の純情さを分からず申し訳なく思いながらも正樹は承知した。

「悪いな、正樹」

 そう言うと、智彦は正樹の肩に片手をやった。

「いや、別に良いよ。これ位なんてことない」

 言って、正樹は余裕の素振りをして見せた。そして、先ほどから自分は何を言っているのだろうと自問した。彼は、感情とは裏腹の答えに対して心底苛立ちを覚えた。が、しかし、正樹はそれを表すことをしなかった。もう一人の正樹がそれを抑えた。嗚呼、運命は正にその通りに動いているやがて二人の正樹は、悲しみと苦しみの苦痛に嫌気を覚えながらも、とてつもなく途方に暮れた。恵はもうずっと遠くへと消えてしまったような、この異常なまでのたまらない喪失感が、この日の夜には正樹の目の前へと既に訪れを迎えていた。

次の日の朝を迎えた。正樹は何時ものように家を出た。今日は朝露が降りたようにとても涼しい空気が外一面には漂っており、その爽やかさが正樹の全身に目覚め時の癒しを与えた。何羽もの雀が上の電線辺りから声を何十にもして鳴り響かせている。太陽の光が虹色の直線で正樹の目の中に入った。

「遅いぞ、正樹」

正樹の家から少しだけ下った場所の交差点辺りとなる何時もの待ち合わせ場所で、何時ものように智彦と恵の二人は正樹を待っていた。どうやら、ふと今日という朝を感じている間に歩調が遅れてしまったらしい。少しばかり約束の時間を過ぎてしまっていた。

「そんなことないよ。おはよう、正樹」

 恵が言った。

「悪いな。何時も通り出たつもりだったんだけど、ちょっと歩くのが遅かったのかな?

とても身近に感じる自然にまでも覚まされた正樹の体が今日という運命を思い出させている。彼の足音が遅くと進むのは無理もない。正樹の表情は無意識と暗かった。

「大丈夫? 何処か具合悪いの?

 真っ先と異変に気付いた恵は訊いた。

「いや、そんなんじゃないんだ。只、考え事してただけだよ」

「考え事? 何? あたしで良かったら教えて」

「大したことじゃないよ。何でもないことさ」

「ほら、早くしないと遅刻するぞ。急ごうぜ」

 立ち止まり動こうとしない二人に、智彦は苛立ちながら言った。智彦は少しだけ先に進んで振り向いていた。

「うん、そうだね。少し急いだ方が良いかもしれない。でも、まだ全然間に合うから正樹は気にしないで。行こう」

 言って、恵は正樹の手を引いてから離した。手をそのまま繋がなかったのは、勿論、智彦を意識しての事だった。やや急ぎ足で登校している中で、智彦は、今日は従兄弟の家で用事があり、そこで急いで家に帰らなければならない為、今日は一緒には帰れないと正樹と恵に話した。そして恵に知られないように、正樹にだけ彼は目で合図を送った。正樹はそれに気付くと軽く頷いてから、ただ呆然と空を見上げた。

放課後になった。

「それじゃ、先に帰るよ」

 智彦は正樹に軽くそう告げてから足早と教室を後にした。正樹と智彦の席はとても近くで、かつ、恵とは離れていた。恵は智彦が教室を出たことをまだ知らないで居る。実は、三人は三年に上がっても同じクラスだった。それは学校側が中学途中から転校してきた正樹へ配慮しての事だった。ただ単純に正樹と一番に仲が良く、かつ、家が近い智彦と恵を同じクラスにしたというわけだ。勿論、理由は他にも考えられるが、そんな事は三人にとって関係なかった。運命に導かれたように、また三人とも一緒になれた。それがたまらなく嬉しかった。正樹の席は、教室の出入口近くにある。恵が帰り支度を済ませて自身の机から正樹の席へと後から来た。彼女は正樹の所へ来るなり辺りを見渡した。そして言った。

「あれ、智彦もう帰ったの? 本当に急いでいるんだね」

「ああ、先に帰るって言って直ぐに出て行ったよ」

「そうなんだ」

 そう発してから、もう一度恵は周囲を見渡した。

「俺たちはゆっくり帰ろう。何時もみたいに……恵も今日は時間あるだろ?

「うん。……でも、今日はうるさい智彦が居ない分、もっとゆっくり帰りたい気分」

 鞄を手前に両手で持ちながら、可愛らしげと恵はそう言った。

「そんなこと言うなよ。あいつが居るから行きも帰りも話が盛り上がってる」

 正樹は思わずと智彦を持ち上げた。それは心が二人居る彼の素直な気持ちだった。

「冗談で言ってみただけ。智彦も大事だもん。特に、正樹にとっては。そうでしょ?

 言って恵は正樹に微笑んだ。

「ああ」

 言いながら、正樹は斜めに頷いた。

「でもね、誤解しないで。特別ゆっくり帰りたい気持ちは本気だから」

 はっきりとしたその言葉には、正樹に対する愛がとても感じられた。正樹は一瞬迷った。運命を変えてしまいたい。だが、もう一人の正樹から言わせてもらえば、智彦を思いやる気持ちの方がやはり圧倒的に大きかった。しかし、もう一人の彼は恵の事を深く思っていない訳ではない。もしかすれば、この世界の正樹の方が遙かに彼女に対して気持ちは果てしなく大きかった。運命の悪戯と言えば其処までだが、裏と表は決して一つに混じり合う事は許されない。それが、この今ある現実の導かれた宿命の表れである。そして、運命は決して変わらない。そう考えると、正樹はとてもたまらなくなり、思わず恵から逸れて校舎の外をじっと眺めた。

「――どうしたの? 正樹」

言われるまで、正樹の時間は完全と止まっていた。

正樹と恵の二人は学校の校門を抜けて更に上の丘へと続く公道を、何を話すわけでもなく、ただゆっくりと寄添うようにしながら大切に歩いた。一歩一歩にこの時の幸せな気持ちを持たせ、そして、あたかも二人は交際しているかのように世界はそう見えた。ようやくと近道となる公園へと近づいてきた。やがて正樹は口を開いた。

「なあ、恵。今日は久しぶりに公園で話してから帰らないか?

「うん、良いよ。あたしもね、そう思ってた所。正樹と久しぶりに二人きりで長い時間話したいなって……。ほら、最近無かったでしょ?

 そう発してから、恵は正樹の腕を掴もうとした。が、しかし、彼女はそれを我慢した。この透き通るように綺麗でいてとても甘い美声に、これまで何度愛しさを覚えただろうか? 正樹はそう感じながら「そうだな……」と感情深く返した。彼は少し間を開けてから続けた。

「実は、今日はな、恵に大事な話があるんだ」

「大事な話? え、何?

 突然の話に恵は驚きを隠さなかった。彼女は知りたげに正樹の顔を見つめた。しかし、正樹は言った。

「公園に着いてから話すよ」

躱された態度に、恵は「今知りたいな。もう、意地悪」

 と、甘えた落ち込みを見せた。正樹はそれがとてもたまらなかった。彼は思わず言った。

「そんなんじゃないさ」

「分かってる。甘えてみただけ。御免ね」

 言って恵は微笑んだ。彼女は続けた。

「ねえ、正樹。今日も夕日見てから帰らない?

正樹は思った。彼女とこうして出来るのは今日が最後かも知れない。ましてや来週の今頃は、登校の時でさえ一緒であることはないだろう。日曜日、恵は智彦の告白を受け入れる。自分はこれから二人を繋ぎ合わせそっと離れなければならない。それが使命であり運命なのだ。正樹はたまらない絶望感を堪えて最後になるであろうこの時をとても大切にしたいと念じた。そして正樹は言った。

「うん、久しぶりに暗くなるまで居よう。二人で」

「嬉しい。良かった、断られなくて」

 恵はとても可愛く微笑んだ。それから二人は、公園の展望台に着いてから色々な話に没頭した。すると、いつの間にか黄昏時をもうそろそろと迎えようとしている。上空は青色から赤紫色へと移り変わり行き、金色の太陽はゆらゆらと只何も言わずに、やがて凪を思わせる地平線へと姿を消そうとしていた。二人は前と同じ様に並んでその光景を眺めた。今日も綺麗だね――恵のその言葉が正樹の心にとても焼き付いた。その後だった。

「なあ、恵」

 唐突に正樹は言葉を発した。

「なあに? 正樹」

 正樹を向いて恵は訊いた。夕日は完全と姿を消した。

「お前、智彦の事どう思ってる?

 言われて、恵は眉毛を動かし目を少しだけ見開いた。

「何? いきなり。智彦の事どうって、良い友達だなって思ってるけど……それがどうかしたの?

 恵は困惑しながらも正樹にそう言った。

「そうじゃなくて、恋愛対象的にどうなんだ? 実はそれが肝心なんだ」

「え? ……」

 恵は思わず言葉を詰まらせた。

「答えてくれないか? この先の未来にとって、とても大切なんだ」

 重い表情で正樹は言った。此処で少しばかり風の存在を二人は感じた。正樹と恵は、何か直ぐ側にいながらも距離がとてつもなく離れたような感覚に陥った。

「未来? ……この先って、どう言うこと?

 恵は恐れながらも訊いた。

「俺はこの世界の未来を知ってる。そしてもう一つの世界の人間でもある。つまり、二つの運命を俺は知ってるんだ……。とにかく、あいつは悪い奴じゃない……」

正樹にとって言いたくはない言葉だった。自分は何てことを口に出してしまっているのだろうか? この自問に滅茶苦茶とした答えは見当たらない。ただ真っ直ぐな答えだ。だからなおさら今の正樹を思わずやるせなくさせた。正樹は段々と気の遠くなるような息苦しさを感じだした。しかし、その苦さを感じ始めたこの場を払拭するかの様に、恵がいきなりと笑いだした。そして彼女は言った。

「もう一つの人間って何言ってるの? 正樹なんか変だよ。二つの運命とか冗談になってない。もう、からかうのはやめて」

 発した後、恵は余裕な態度を見せた。が、実際の所、彼女の内心は必死だった。何かが終わろうとしている――彼女は心の何処かでそう悟っていた。

「俺は真剣だよ」

途端、恵の笑みは消えた。正樹は一度天を仰いでから溜息混じりに続けた。

「恵、二つは決して一つには変わらない。どんな事があっても許されないんだ。裏と表があるだろ? それと同じで結ばれる運命と結ばれない運命とが世界には紙一重で存在するんだ。そしてこの世界は俺にとっては裏でもあり表でもある。けど分かる……此処は表なんだって。だから俺がこの世界に来たところで自分の運命を変えられない」

やがては星がちらつきだす薄暗さの中で正樹は恵を悲しくも愛おしく見つめた。そして彼は、ありったけの思いを込めて言った。

「恵。おれはな、只、もう誰も不幸になって欲しくないんだ」

正樹は恵から状態を逸らして再びと黒に染まり行く海を腰壁に両手を置いてから眺めた。恵は今どのような表情をしているのだろうか? それを考えたくなかった。

「智彦となら幸せになれる。それがお前の表だよ。それを俺が変えちゃいけない」

 完全ともう一つの世界に支配されている正樹は言った。恵は訊いた。

「それ、本気で言ってるの?

「ああ、本気だよ」

「……」

 恵は何かを返そうとしたが、止めた。

「恵、お前は智彦と付き合って一緒になる。それがこの世界の運命――」

 正樹が淡々と話しているその時だった。

「嫌! 聞きたくない!

 恵がありったけの声で叫んだ。彼女は続けた。

「あたしが想う別の人と結ばれるなんて嫌よ。そんなの絶対に嫌!

正樹は再びと恵を見た。まるで悔しさを露わにした恵が其処にいた。正樹は言った。

「恵、運命に逆らえば全てが消えるんだ。どんなに思ってても許されないんだよ……絶対に。仕方がないんだ。俺にはどうすることも出来ない」

「……正樹は全然分かってない。あたしは変わらない。あたしの気持ちは一つで二つあるわけじゃない。世界だって同じよ。正樹はどうかしてる。それに、もし、例え正樹の話すとおりそうだとしても、運命は変えられる。世界は正樹が思ってる事と違うの。だって、そうでしょ? あたしは正樹のことが――」

 正樹が遮った。

「分かってる。分かってるさ……」

正樹は思わず恵を抱きしめそうな気持ちになった。夜空は不似合いなほどに星が幾つも見えだしている。恵はうっすらと涙を見せ始めていた。辺りは無言に満ちた。やがてはささやかな夜虫の音色が、此方へと届いていることに気付いた。その矢先だった。恵が口を開いた。

「ねえ、聞いて正樹」

「ん?

「もし、あたしが智彦と付き合っても、今まで通りに居てくれる?

恵のそれは、とても優しい言葉だった。しかし、何処かとても酷い悲しみを感じさせた。互いの諦めの先に、延長線はあるのか? それを彼女は訊いたからだ。正樹はそれを察すると、とても気の遠くなるような終わりのない苦しみを感じずには居られなかった。

「……ああ。でも、約束は出来ない」

 考えた挙げ句に見つけた答えがそれだった。

「分かった。……でもね、正樹」

 言って、恵は一瞬天を仰いだ。それは涙を零さぬよう仕草をしたように見えた。肩で溜息を溢した恵は続けた。

「例えばね、正樹。正樹の言うとおりもう一つの世界があったとしたら、……そしたらね、もう一つの世界でもあたしから好きな人に行くの。そしてね、彼も直ぐにあたしに近づいてくれて何もかもが近くに感じあえる仲になるの。それでいつの間にか二人は付き合ってる。……でも切っ掛けは彼の言葉。あたしはとっても喜ぶけど、でもそれは彼も同じ。恥ずかしいけど、キスしたり寄添ったりして絶対に側から離れない……例えどんなことがあっても。あたしは言うの、ずっと大好きだよって。そして彼も同じことを言う……。二人の間に邪魔する物なんて何もなくて、周りに羨ましがられる位に、何時までも、二人はずっと何時までも愛し合うの。……素敵でしょ?

 恵はそう話しながら、いつの間にか涙を零していた。正樹はもう一つの世界の現実を思い出した。襲いかかる幾つもの過去が、今、正樹の中を駆け巡っている。嗚呼、もう一つの世界の現実はまるで違う正樹は突然と立ちくらみのような症状に襲われた。今、彼はどうすることも出来ない鮮明なる過去に愕然と震えた。それは恐ろしさではなく悲しみの方が当然大きかった。何もかも知らない恵の言葉に、正樹は酷い辛さを覚えた。彼は思わず口元を震える片手で塞いだ。そして、とてつもない勢いで目から涙がこれでもかとばかりに溢れだした。もはやどうすることも出来ない。この世界の恵さえ裏切ってしまったと気付いた正樹は、涙に震えた声で懸命に言った。それが精一杯の言葉だった。

「恵、御免な……御免な……」

正樹は号泣しながら俯いた。この状態で恵の顔など見れるはずがなかった。そして彼は、遂に崩れるように膝をついてしゃがみ込んでしまった。

「どうしたの? 正樹。ねえ、お願いしっかりして」

 すかさず寄った恵が言った。彼女はたまらずに正樹の両肩に手をやった。

「恵、御免な……俺のせいであんな目に遭わされて……御免な……」

正樹を大粒の涙がまだまだと襲い続けている。それを見かねて恵は言った。

「良く分からないけど、正樹、あたしは何にも遭ってないよ。それに、あたしは正樹のこと大好きだから。だから大丈夫。もう一つの世界でも全部許してあげてる。だからお願い、もうそんなに泣かないで」

「いや、許されない。俺はお前を裏切ったんだ。智彦まで犠牲にしてしまって……俺が逃げようなんて言い出さなければ、あんな事にはなってなかった。……全部俺が悪いんだよ。それでも誰が許す? 神でさえ俺にこうしてありえない現実を見せつけて罰を与えているんだ。向こうの世界で求めていた事とまるで違う……どうしても生まれ変わったところで、見てきた幻通りに、やり直しはないんだ……。もう駄目なんだよ!

 正樹は思わず叫んだ。

「駄目なんかじゃない。それはきっともう一つの世界だって同じよ。正樹、自分を責めるのは止めて。ほら、あたしを見て……」

恵の優しい言葉に正樹は思わず彼女の顔を見た。彼女は女神のように美しく光って見えた。それ位にこの世界の恵も完全だった。足りない物など一つもない完璧な女性だった。

「そうだ、これ使って」

 言うと、恵は慌てて鞄から赤いバンダナを取り出し、そして正樹にそれを手渡した。

「これは……」

 正樹は素直に驚きの色を見せた。それは涙が瞬時に止まった瞬間だった。そのバンダナは智彦が未来で受け取ることになっている。恵と智彦に起こりうるこれからの運命を知る正樹は思わず口に出して言った。

「……これは俺が受け取るべき物じゃない」

しかし、恵は首を横に振った。そしてより一層微笑んだ。

「良いの。正樹にプレゼントしようと思ってた物だから。お願い、受け取って」

正樹は戸惑った。これを受け取れば運命が変わってしまう。だがしかし、彼は今ある感情に負けてバンダナをそっと受け取ってしまった。もはや後には引けない。今、正に運命は劇的に変化を迎えようとしている。

「ねえ、正樹。さっきも少しだけ言ったことなんだけど……」

正樹はこの世界に何か異変を感じた。それは、何やら恐ろしい物というわけではなく、とにかく表現できない何かであった。そして次の瞬間だった。恵は言った。

「もう一つの世界とか関係ない。あたしはね、正樹のことが誰よりもずっと大好きだよ」

やはり異変は気のせいではなかった。瞬間、辺りが昼間のように明るくなった。いや、むしろそれ以上に眩しく光っていた。正樹は察した。これまで一生懸命に隠していた第三の運命の訪れによって、世界は今、正に全てが消えようとしている。二人以外の物全てが正樹には、非常に細かいモザイクが掛かったように見えた。一体これからどうなってしまうのか? 答えは明白だった。が、しかし、正樹は気が動転しながらも祈った。

嗚呼、神よ。どうか、自分以外の全てを消さないで下さい――

心の中で唱えた言葉は、崩れゆく背景に飲み込まれた様に感じた。直後、正樹は光と共に、何故か彼の中で感情を更に高ぶらせた。それは愛の証とも言うべき心の高鳴りに聞こえた。もはや一つのこと以外は考えられなかった。それほどに彼はこの運命に迫られていることに気付いていた。もはや我慢することなど出来はしなかった。正樹は次に言った。たとえこれが最後となろうとも構わなかった。

「……恵、俺もお前のことが好きだ」

途端だった。辺りをとり囲む光が全てを満たす白色に変わり、何もかも正樹から見えなくした。そして遂に正樹はその支配された輝きの中で意識を失った。

「――正樹、しっかりして! ねえ、起きて! お願い、目を覚まして!

 恵の声だけが聞こえてくる。正樹は今、無気力のままに暗闇の世界へと魂が引き込まれようとしていた。そして正樹は見た。これまでの人生の全てが、二つ共に絡まって一つ一つを頭の中へと鮮明に映し出されている。両親の死、施設での少年時代、出会いと別れ、そして裏切り。新しい女性と捨てられぬ過去。死から蘇ったもう一つの世界。これから再びと向かおうとしているあの時体験した暗闇では、果たしてどのくらいに時間が過ぎていたのだろうか? 正樹は冷静に映像を見つめていた。ふと、気がつくと、いつの間にか正樹自身がもう一つの世界の自分に変化していた。今、彼は懐かしい施設の広い浴室に立っている。一人の少年がこの浴室に入ってきた。もう一つの世界の智彦だ。彼は正樹の存在に気がついた。最初、正樹は何故にこの場面へと自身の魂が送られたのか全く分からなかった。しかし、彼は悟った。この二重螺旋とも言うべき二つの世界において、全ての記憶に共通する答えを正樹は見つけたのだ。正樹は目の前にいる心底に友を思う智彦にまでも気付させられた。一体人生とは何なのか? そしてまた、人は何を考えて生きれば良いのだろう? 正樹は裏なる世界で幾つかの人に助けられた。それは確かに窮地に追い込まれたからこそ感じる事が出来る感謝の思いだった。そして人生には表とも言うべき無意識にも感謝せねばならない幸せなる世界が必ず存在する。正樹は考えた。自分のこれまでの人生全てに、今、言える言葉は果たしてなんだろうか? それは、もはやたった一つしか見当たらなかった。

「“ありがとう”――」

 その一言が、この局面の辺り一面に響いた。

この上ないほどの感情が漲った今、正樹は智彦の両肩に手を置き、そして何かを彼に見せた。それが一体何だったのか、この時の正樹には分からなかった。只、無意識とこれからの未来を正樹は彼に教えていた。

「――正樹! 正樹!

 再びともう一つの世界から届いた恵の声が耳元を掠めた。その自身を呼ぶ声には多重とした様に正樹には聞こえていた。もしや、今、自分は二つの世界の恵に呼ばれているのではないだろうか? そんな錯覚さえした。だが、しかし、正樹はここで意識を回復させることはなく、只じんわりと暗闇の世界へと彼の魂は導かれていった。

正樹は暗闇の中にいた。しかし、其処はこの前とはまるで違う。前のように凍えるような寒さを感じる事がなく、むしろ何やら温かい心地よさを感じるのだ。それに対して正樹は何やら異変を感じ取っていた。正樹は何気に周囲を見渡してみた。勿論何も見えない。だがしかし、その代わりとして微かな音が段々と聞こえ始めてきた。音は徐々に大きくはっきりとこの空間に響き渡る。それには、実に様々で無機質な機器音までも含まれていた。

「――石川さん、大変です! 患者さんが目を覚ましました」

「――今すぐに先生と近親者の方呼んできて! そう、さっきまで居た入院中のあの女性よ」

正樹は暗闇の中から光を見た。その光景は、只、ぼんやりとしていて、かつ、慣れないほどにとても明るかった。正樹は思った。一体此処は何処なのだろうか? 重い意識の中で記憶を辿ってみる。暗闇に入り込む前の世界から更にもっと何年か前の過去へと記憶は時を遡った。そして遂に彼は気付いた。そうか! 此処は――未だにぼんやりとしたこの光景から眩しい光が当った。今、駆けつけた担当医が瞳孔の確認をペンライトで行っている。正樹の記憶に間違いはなかった。正樹は何もかもが信じられなかった。運命は記憶を遡りこうして現実としてもう一つの世界の未来である今に存在している。彼は興奮を起こす気力を、まるで過去で全て出し切ったように失ったまま、しかしながら思わず担当医に力なく弱々しくも命一杯に訊いた。

「せ、先生、一体俺は……」

担当医は微笑んだ。そして言った。

「あなたですか? ……助かったんですよ。あなたは神に救われたんです」

その言葉に、正樹は思わず涙がどっと込み上げた。嗚呼、何と言うことだろう。こんな自分が救われるだなんて。自分は何と感謝以上の言葉を神に返せばよいのだろうか? 許されないはずの世界は第三の訪れにより劇的に変わった。失われるはずの過去と未来がこうして現実として残されている。自分はこれからどう生きればよいのだろうか? 答えは確実に見えた。だからこそ涙がなおさらに止まらなかった。

「正樹!――

 聞き覚えのある声が此方に届いた。やはり恵だった。正樹は奇跡と言う言葉に運命を感じた。それは間違いなく新しい光の導きだった。あたかも最初からそうであったように恵は言った。

「もう何でこんな酷い事になったの。でも良かった、目を覚ましてくれて……本当に良かった……」

「恵……」

「ずっとね、ずっと呼んでたんだよ。正樹って……」

そうか……。やはり暗闇へと向かう直前に聞こえたあの声は、二つの世界から来ていたのか。正樹は涙ぐみながらもそう悟った。本当に不思議な現象だった。どんな形であれ、再会を果たした正樹と恵の二人は喜びの涙で包まれた。確かに、二人に起きたこの上ない過酷が、より一層とその全てに煌めきと感動を与えていた。過去を薄れさせるほどに、とにかく嬉しかった。生きている幸せを心から感じた瞬間だった。

正樹は、次の日には集中治療室から個室である特別病室に移されていた。一般の病室でなかったのは、恵が気を利かせての計らいだった。高額となる部屋代は自分が出すと恵は佐代子に話していたのだ。勿論、正樹には内緒にされた。恵は正樹が個室に移ってから三日ほどして退院したが、それでも自身の住まいには戻ることなく正樹に付きっきりだった。シャワー室から台所まで完備されたこの部屋は、とにかく病院にしては快適すぎた。恵の着替えはマネージャーに頼んで持って来させればよい。彼女は正樹にそう話した。勿論、芸能界に今居ることを話した後のことだ。

恵は仕事を全て無理矢理とキャンセルさせていた。まだ体が思わしくないという理由で、だった。事務所側も今回ばかりは何も言えない。恵が過労で倒れたのは事実であり彼らに責任があったからだ。これからは恵の言い分通りにスケジュールはゆとりのある物になりそうだった。恵は正樹に言った。

「正樹は何も心配しないで。仕事の量減らしてもらうから」

どうして? と、正樹が尋ねると「また忙しくなると、正樹に会えなくなっちゃうからよ」と恵は微笑んで言った。彼女は続けた。

「恵ね、もう正樹から絶対に離れたくないの」

その自分のことを「恵」と言う彼女に、正樹は再びとこの世界に戻ったことを実感した。恵には、香織とは別れたことを健二との事件を含めて話している。

「でもね、もう少ししたら復帰しなきゃいけない。ドラマの撮影が恵のせいでストップしてるの。山本レナはまた復活しなきゃ……正樹の事もあるし、もう嫌だからって引退は出来ない……。沢山休み貰うから、一緒にリハビリ頑張ろうね」

恵は後遺症で片足が上手く動かせない正樹を一生支える決意で居た。それには自分が仕事を頑張らなければ――彼女はそんな思いだったのだ。

「御免な、色々迷惑かけて……」

 正樹は佐代子からひっそりと部屋代のことを聞いていた。感謝の気持ちで一杯だった。

「ううん、良いの。正樹が気にしないで。……早く良くなるといいね」

「そうだな。俺も頑張るよ」

 言って正樹は言うことを聞かない片足を摩った。

「そうだ!

 恵がいきなりと発した。「ん?」と、正樹は返した。

「足が治ったら二人で旅行に行こう。素敵な島があるの。砂浜がどこまでも白くて、人も優しくて、虫と鳥の声が近くに感じるくらいにとっても静かな所……。良いでしょ?

「ああ……行こう、一緒に」

「恵のお気に入りの場所があるの。其処で一緒に歩こうね」

「ああ……」

 言って、正樹は密かに、自身の魂が離れた時に見た島を思い出した。きっとあの場所の事だろう――恵の言うとおり、彼処は確かに何処までも美しい島だった。

「正樹……」

 急に真剣な表情になった恵が言った。

「ん? どうした?

 正樹もつられて真顔に戻った。恵は呟いた。

「恵ね、答えを見つけたの……ずっと探してた答え」

恵が正樹を愛おしく見つめた。そして言った。

「戦争で亡くなった人達やお母さんとお姉ちゃんの為にもずっと愛します。それがね、恵の探してた答えだから」

「恵……」

 正樹は呟き、そしてそれから思わず天井を見上げた。

「そうか、恵も答えを見つけたのか……」

「正樹も見つけたの?

 と、恵は正樹が発した言葉の意味に直ぐ反応した。

「正樹の答えは何? 教えて」優しくも甘いその美声はどの世界でも変わらなかった。

「何もかもに感謝する心だよ。その言葉に俺は救われた。今だってそうさ。本当に色んな事があって、そして、俺たちはこうして再び出会えた。……そうだろ?

 正樹は同調するように優しく言った。

「うん、そうだね……。なんだかとっても素敵」

「そうさ、そう考えれば何もかもが素敵に変わる。世界は変われるんだ」

 言って、正樹は力強さをいつの間にか漲らせた。

「正樹も知らない間に大人になったね」

 微笑んで恵が言う。

「お互い様だろ?

 正樹も微笑み返して言った。

「そうだね。……本当に、あっという間だった」

 今度は恵が天井を見上げてから首を横に振った。正樹はそれを見て、彼女の疲れを心底に感じた。

「そうだな……本当に長くて、でも早すぎてまだ整理が付かない。そんな所かな」

「うん……」

 言って恵は少しだけ目を瞑った。正樹と恵の間に沈黙が漂った。その時二人は過去をしみじみと振り返っていた。やがて恵は言った。

「昔のこと色々思い出してたら、なんだか眠くなっちゃった。少しだけ寝てても良い?

恵がそう言うのは無理もなかった。彼女は昨晩まで良く眠れなかったと正樹に言っていた。今、ようやくと安堵の色が出始め、そこからとても深い眠気が彼女に襲い掛かって来ていた。恵はそのままの場所から正樹の寝るベッドに上半身だけ横にしようとした。正樹はたまらずに言った。

「こっちに来いよ。ベッドは広いんだ」

「本当? 嬉しい。でも、大丈夫?

「ああ」

 言って、正樹は隣にスペースを作るように片側へ寄った。

「それじゃ甘えるね」

 言うと、恵は靴を脱いでベッドの空いたスペースに移った。それはまるで子供がはしゃぐように浮き浮きとした表情だった。恵は横になった。

「気持ち良い……」

 言って、どれ位だろうか? 恵は正樹の肩辺りへと顔を寄せたままに寝てしまっていた。そのすやすやとした表情を見ていると、何だか正樹まで深い眠気に襲われてきた。少しだけ考えた末、正樹も恵と同様に目を瞑ることにした。

正樹はそのままの状態で眠りに入った。そして彼は夢を見た

其処は白い二階建ての住居で、正樹はその二階の一室に実にふんわりとして浮いて立っている。開けっ放しにされた出窓からそよ風と光が此方へと入ってきていた。ふと、正樹は目の前にあるベッド横のサイドテーブルに置かれている写真立てで飾られた写真が気になった。彼は、此処が一体何処なのかを把握するのに、その写真が必要だと直感的に感じていた。正樹は二つある写真の内、一つを手に取り上げてみた。そして彼は、あからさまに驚愕した。なんと、其処に写されていたのは、大人になった正樹と恵、そして智彦と裕美の姿だった。四人は横に並んで立っていて、かつ、正樹と恵の間となる手前には、恵に良く似た男の子の姿があった。正樹は悟った。此処はもう一つの世界の未来なんだと。世界はちゃんと変化を成しながらも生きていた。正樹の心の中は、この上ないほど喜びに満ちた。それはとても幸せな気持ちだった。感動のあまり震える手を正樹は一生懸命に押さえた。正樹は、もう一つの写真も手に取り見た。そのもう一つの写真には、産婦人科の院長を務める白衣姿の園長先生の姿が、生まれたばかりの息子を抱く恵と共にあった。

2044年6月の初夏書斎の洒落た出窓から非常にすっきりとした風が舞うようにして此方へと入り込む。今、正樹の息子である翔大が、最近亡くなった父の遺品の一つである原稿を読み終えた。翔大は立ち上がり涙を拭うことなく瞳を閉じては深呼吸をした。外の香りを感じさせる風の匂いが、まだ其処には残されていた。彼は何だか人恋しくなり部屋から飛び出しては玄関先へと向かった。広い庭には妻である彩香の姿がある。彩香は今、庭の端にある少しばかりの畑に、とても長いホースを伸ばして水を撒き終えた所だった。

「彩香」

 翔大は彩香の後ろ姿に声をかけた。

「なあに? あなた」

 振り向き、彩香は言った。

「これから海を散歩しに行かないか?

「ええ? ……まあ、良いけど。でも、ちょっと待って。これから洗濯物干したり、他にも色々としないといけない事があるから後に――」

 翔大が遮った。

「今すぐじゃなきゃ駄目なんだ。……砂浜を歩こう、一緒に」

 言って、翔大は彩香の腕を優しく掴んだ。翔大はとにかく急いだ。一時一時を逃すまいと大切に感じたかったからだ。そして、その思いは確かに彩香へと伝わる。彩香は翔大の言動に只ならぬ物を感じていた。

「……そうね、分かったわ」

 折れたように彩香は言った。

二人は小高い丘の上にある家から下って直ぐにある砂浜へと徒歩で向かい辿り着いた。一歩一歩噛みしめるように歩く足が白い砂の中へと潜る度に、自然と生み出した音が二人の耳に入った。辺りに人の声など見当たらない。今、二人はこの砂浜を独占している。少しばかり歩いたところで近くの防風林から海鳥が飛び立ち、そしてそれが此方から向こうへと渡ろうとしているのが見えた。その時だった。翔大が沈黙を破るように口を開いた。

「なあ、彩香。俺とお前はもう一つの世界でも結ばれてて、そして上手いことやってるよな? この世界の今みたいに……いや、きっとそうだろう」

「あなた、どうしたの? 急に変な話して……言ってる意味が良く分からないわ」

 急に立ち止まり彩香は言った。彼女は困惑していた。無理もなかった。

「いや、何でもないんだ。……それより、たまには腕を組んで歩かないか?

 言われて、彩香は笑顔を作った。

「もう、やっぱり今日のあなたって変」彩香は言ってから「でも、こうやって歩くのって久しぶりね」と、腕を回してから恥ずかしげに付け足した。二人は再びと歩き出した。長く延びる砂浜の途中に大きな流木が打上げられている。翔大と彩香は、其処を通り越し、やがては砂浜の果てに到達した。目の前はそびえ立つ岩礁の森だった。仕方無しというわけではないが、二人は自然と其処から踵を返して歩き続けた。そして、再びとあの流木の辺りまで来た。

「少し此処で休もう」

 直ぐ目の前の流木を指さし翔大は言った。

「そうね。でも、久しぶりに座るわね、此処」

「ああ、そうだな」

その流木とは付き合いが長いという訳でもない微妙な関係だった。確か二年前に漂着してから、潮位に流されず、あまり居場所を変えることなく、唯々この広く長い砂浜を散歩する人達の足を止めた。翔大と彩香の二人もその内の一組だった。二人は流木に座った。そして、目の前に広がる光景を楽しんだ。今日は本当に凪っている。ささやかな波が砂のかけ上がりを滑るようにして広がりを見せる度に、それはとても澄んだ青空を其処に映し出した。煌めきを全面に表現する海原の上空には、北から南へと、とても長い尾をつけた白い飛行機が小さく飛んでいる。翔大はそれを、太陽の光を和らげるように目を細めて眺めていた。

「気持ち良い……。本当に此処は癒されるわ」

この流木以外に余計な物はいらず、もうこれ以上に余計な色彩は何もいらない――そう錯覚させるほどに、目に焼き付く光景はとにかく何もかもが美しかった。翔大は、爽快な景色を未だに目を細め、そして思った。試練という暗闇の中で、手探りをしながらも歩き続けた父・正樹と母・恵。それはとてつもない逞しさの中においても辛さと苦しみが途方もなく痛みをなして襲いかかったに違いない。しかし、それでも二人は生き抜いた。そして、その先で翔大は生まれた。嗚呼、それなのに、自分はなんてまだまだ未熟なのだろう。けれど、それでも妻はこうして側にいて、そして自然は癒しと微笑みをもたらしてくれる。これ程自分が幸せだと感じた事はこれまで正直なかった。無情にも、ごく当たり前に感じていた所が多々あった。父・正樹と母・恵から悟る思いは、只、一生懸命に自分を生きると言うことだけではない。翔大は父と母の、このうえない愛に浸りすぎた自分のこれまでの人生を恥じ、そしてまた、感謝の思いがこれまで以上に込み上げた。

「なあ、彩香。後で話したいことがある」

 思い老ける翔大は言った。

「えっ、何? 今話せないの?

 言いながら、彩香は髪を靡かせ翔大を見た。

「話すと長くなるんだ……後でゆっくり話すよ」

 言って翔大は天を仰いだ。今の彼の気持ちみたいに、天は何処までも澄み切り、そしてとても眩しかった。

「もう、気になるわ。悪い知らせじゃなければ良いけど」

「そんなんじゃないさ。素敵な話だよ。とにかく、彩香がまだ知らない話だ」

微笑み彩香を見る翔大に安堵した彼女は、意地悪い表情へと切り替えた。そして訊いた。

「もう、あなた結婚して何年も経つのに、まだあたしに隠し事とかあったの?

「隠してはいないよ。実は俺も今日知ったばかりなんだ。親父の書斎でね」

親父の書斎で――その言葉は、今の彼女を納得させるには十分だった。

「……そう。それなら良かった」

二人の間に沈黙が漂った。それはまるで、海中に潜む魚の様だった。燦々と降り注ぐ陽光の姿から、無意識と陰のある方向へと耳を傾けた。すると、後ろの茂みからヤドカリ達の潜めた足音が聞こえてきた。その時だった。

「彩香……」

「ん?

翔大は次に言った。それはとても純粋でいて穏やかだった。

愛している――

その言葉は、果たして世界中にも伝わるだろうか? それは確かに、今すぐに実感できることではない。しかし、翔大は祈った。

――どうか世界よ、この思いを感じて下さい。

そして今、部屋で見たあの時と同じ風が、二人の目の前をそっと、只そっと気持ちよく吹き抜けていった。

 

“あなたの人生に、愛はありますか? ”

おわり

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